ほ と け を 信 じ る 6月14日 常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】 皆川 廣義 |
最初のほとけ(仏)さまは、仏教を開かれたお釈迦さまです。このお釈迦さまを中心に、仏を信じるということを述べさせていただきます。 仏教では、信じる仏を、外なる仏と内なる仏の二つに分けています。 まず、2500年前、ブッダガヤの菩提樹下に成道されたお釈迦さまが、初めに外なる仏として生まれました。お釈迦さまが在世中は、多くの仏教徒は外なる仏として、帰依し、信仰していました。ただ、すぐれた仏教徒は、心のなかに内なる仏として、お釈迦さまをいただいていたように思います。 ところが、お釈迦さまが80歳になり、クシナガラのサーラの林で亡くなり、仏教徒は外なる仏を失うことになります。人々はお釈迦さまを訪ね、苦しみを語り、安心への道を聞くことができなくなり、悲しみに打ちひしがれてしまいました。暗黒の人生を照らしみちびいてくれた先達を失ってしまったのです。 このお釈迦さまを失った絶望のなかから、仏教徒は、お釈迦さまを内なる仏として信仰することになります。 仏教徒たちは、亡くなられたお釈迦さまの遺体を火葬にし、遺骨(仏舎利)を亡きお釈迦さまの象徴とし、仏塔を建てて礼拝供養し、自分の心のなかに内なる仏としてお釈迦さまをいだくことになります。 仏舎利は、生前のお釈迦さまの身体を構成していたもののなかで、唯一残されたものであり、仏教徒はこの仏舎利をお釈迦さまの象徴とし、それを礼拝供養することにより、内なる仏として自分の心のなかにお釈迦さまを再生させたのです。仏舎利信仰、仏塔信仰を方便とし、外なる仏を内なる仏としていだくことになったのです。 それは、外なる仏であったお釈迦さまを、仏教徒の心のなかに内在化し、自分の心のなかに誕生していただくことでした。自分の心のなかに誕生されたお釈迦さまを、礼拝供養することによって育てあげ、等身大の生きていたときと同じお釈迦さまになっていただき、この等身大のお釈迦さまを、自分の生きている間礼拝供養し、自分の心に生きていただくことにしました。 そして、この自分の心に内なる仏として生きているお釈迦さまに、祈りを通して聞法し、悟りと安心をさずかる道をつくりだしたのです。 仏教徒は、お釈迦さまと死別の悲しみを体験した上に、この絶望をみごとに乗り越えて、宗教としての仏教を創造することになったのです。 この仏教徒の自分の心にお釈迦さまを再生していただく営みは、まず、お釈迦さまの生涯をよく学んでお人柄を正しく理解し、その上に教えをよく学び、お釈迦さまを心のなかに正しく記憶することより始まります(記仏)。 次に、正しく記憶したお釈迦さまをふまえて、自分の心のなかに自覚的にお釈迦さまに誕生していただきます(再誕生仏)。 その誕生していただいた小さなお釈迦さまを、供養としての学びにより、等身大の生きていたときと同じお釈迦さまに成長していただきます(現成仏)。 供養としての学びは、お釈迦さまの生涯や教えを学び、思い、語り合い、信仰することです。 この現成したお釈迦さまに、生涯礼拝供養をつづけて、自分の心に共生していただき、共生しているお釈迦さまを、礼拝供養するなかに、お釈迦さまの悟りと安心を共有させていただくという不思議が生まれるのです。 仏教徒は、このように外なる仏を方便として、内なる仏をつくり、お釈迦さまを永遠なる仏にすることになったのです。この外なる仏と内なる仏を礼拝信仰することにより、いつどこでもお釈迦さまに会い、聞法し、悟りと安心をさずかることができるようになりました。 私たちの外なる仏、内なる仏としてのお釈迦さまは、根本教理として三帰依と六度を示し、その学びと実践により、どんな人にも人生の目的の悟り、死苦から解脱して安心と生きがいが得られると説示されています。 この三帰依、六度も、お釈迦さまより説示された外なる教えですが、それを自分の心のなかに学びとって、内なる仏お釈迦さまの教えとすることがなければなりません。つまり、私たちは、外なる教えを内なる教えにして実践しなければ、お釈迦さまの悟りと安心はいただけないのです。 外なる仏には、みえなければウソがつけるかもしれませんが、内なる仏は共生しているのですから、絶対ウソがつけません。内なる仏をもつことにより、仏さまだけにはウソがつけないという、仏教徒のモラル(人倫)が生まれるのです。 また、私たち仏教徒は、外なる仏、内なる仏としてお釈迦さまをはじめ、多くの祖師仏、先祖仏をいただき、この仏たちと祈りを通しての豊かで楽しい対話により、安心や生きがいをさずかることができるのです。私たちは外なる敦煌のような美しい千仏洞だけでなく、心のなかにも美しい千仏洞を持つことができるのです。 |
(駒澤大学名誉教授) |