Ryokuyin Zen Sangha

法話&Photo Gallery 【喫茶去】
喫茶去とは?

平成29年の喫茶去
【1月】(ほとけ)と仏の教えと仏教者グループ     の三宝を信仰する」 【7月】「お盆の送り火と迎え火」
【2月】有余(うよ)無余(むよ)の涅槃」 
【8月】「有余(うよ)無余(むよ)の仏」
【3月】(ほとけ)さまたちの(さけ)び」
【9月】「有余(うよ)無余(むよ)の彼岸」
【4月】生命(いのち)(ちから)を学ぼう」 10月】「無余の仏の仕事」
【5月】「常真寺マンダラ」 【11月】「煩悩の暴走」
【6月】「絶家の悲しみ」 【12月】「菩提樹下の成道と伝道」
 1月の法話「仏と仏の教えと仏教者グループの三宝を信仰する」                                           1月1日号 常真寺住職 皆川廣義 
  新年頭に、お釈迦さまの大切な教えをあらためて再確認し、自分の悟りと安心を豊かなものとしていきたいと祈念します。
 
 お釈迦さまは、二十代の後半までは、幸せな生活をしていましたが、隣人の老病死の苦悩をみていて、その人達が苦しみながら「このような一大事が間もなくあなたにもおとずれてくるのですよ。」と教えてくれていたのだと自覚し、自分の死を悟られます。
 
 そして、この自分の死の自覚は、死にたくないと一生懸命に生きている自分が、一方で死をつくっている矛盾を自覚させ、また、死の恐怖をもたらしました。そして、この矛盾を明らめ、死の恐怖を乗り越えて安心を得るため、二十九歳のとき、国王への道を捨てて、最下端の生活をしながら求道する沙門(しゃもん)という修行者になりました。


 お釈迦さまは、幸いにも六年の修行の後に、ブッダガヤの菩提樹下の坐禅行中に、自分が個としての生命だけでなく、「不死(ふし)なる三世十方(さんぜじっぽう)の生命(いのち)」であることを悟り、この不死なる三世十方の生命のありようのなかに、課題であった自分の人生の目的と死の恐怖を乗り越えて安心を得る道を、発見せられました。

 菩提樹下で成道されたお釈迦さまは、この悟りと安心の道を、すべての人々に伝道せねばならいとの決意をし、熟慮の上に、八十歳でクシナガラのサーラの林で伝道中に亡くなるまで、四十五年の伝道をなされ、すべての人々が悟りと安心を得ることできる道を、仏法として説き示されました。

 お釈迦さまの仏法は、(ほとけ)仏法(ぶっぽう)仏僧伽(ぶつさんが)の信仰(三帰依)と菩提行と涅槃行(六波羅蜜)の実践として説き示されています。

 このたびは、仏と仏法と仏僧伽について、学んでいきます。

 お釈迦さまは、仏と仏法と仏僧伽の三つは、すべての仏教者が持たねばならない大切な宝であり、三宝と説き示されました。

 この三宝の信仰は、まず、外なる三宝を持つことより始めます。仏であるお釈迦さまの生涯を学び、正しく理解し、礼拝の対象としてお釈迦さまの像をまつり、供養し、信仰します。

 次に、仏法は、お釈迦さまの教えを記した経典(般若心経、法華経、修証義など)に説き示されており、これを所持し、これを寺の講話や、自らの読書で学び、正しく理解し信仰します。

 仏僧伽は、仏さまとその教えと行を学び、信じ、仏行を実践するグループのことで、寺サンガと家サンガよりなり、このサンガに入り、サンガのメンバーを信じ、共に教えを学び、仏法を信じ仏行を実践します。

 この外なる三宝を所持し学んで、三宝を正しく理解し、信仰し自分の信心のなかに内在化し、所持します。この信心のなかに内在化して所持した三宝のことを内なる三宝と呼びます。

 外なる三宝より生まれたこの内なる三宝は、さらに外なる三宝への信仰をつくりだし、この三宝と内なる三宝が相互に影響しあいながら
三宝への信仰が段々と深まり、三宝と共に生きる信仰が生まれてきます。そして、この三宝の共生信仰が深まりますと、仏さまの功徳が自然に私たち仏教者に共有される信仰に到達します。

 仏教者に、この仏功徳共有の信仰が生まれると、お釈迦さまが私たちに願われた仏功徳である人生の目的を悟り、死の恐怖を乗り越えて安心と生きがいと喜びが、自然に授かる不思議が現成するのです。(駒澤大学名誉教授)

2月の法話有余(うよ)無余(むよ)の涅槃」                                             2月1日号       常真寺住職  皆川廣義
 仏教は、自分の死がもたらす迷いと苦悩から、悟りと安心を得る道であります。
 
 お釈迦さまは、菩提樹下の成道により、死の迷いと苦悩は、自分の心のなかにある「無明」とその無明がつくりだす「煩悩」にあると明らめました。悟りと安心を得るには、迷いを滅し正しい智慧を得る菩提行と、苦悩を滅し安心を得る涅槃行の実践がなければならない、と説き示されています。

 人は、心にある無明により、現在と自分の立場よりものをみています。この視点からでは、かたよりやゆらぎが生まれ、迷いが生じます。

 お釈迦さまは、菩提樹下の悟りにより、時間的には、過去、現在、未来の三世の視点より、空間的には十方の視点より自己を見て、正しい智慧(菩提)を得られました。この正しい智慧により、人は、個人としての生命だけでなく、この生命が「不死なる三世十方の生命」なる存在であることを悟られました。

 人は、無明と煩悩により個としての生命だけをたよりに生き、死によって個としての生命をを拒否されることにより、死の迷いと苦悩をもつことになっているのです。

 お釈迦さまは、この不死なる三世十方の生命のありようのなかに、出家求道の課題であった死の迷いを滅して人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して安心や生きがいを得る道を発見せられました。

 自分の真実のありようが個としての生命だけでなく、不死なる三世十方の生命であると知った智慧を「菩提」と呼び、この菩提の智慧により、苦悩の原因である煩悩を捨てて得た安心を「涅槃」よびます。

 お釈迦さまは、この涅槃について、有余(生きているとき)の涅槃と無余(死んだ後)の涅槃の二つを説き示しています。始めは有余涅槃を求めて出家求道されたのですが、成道後は、無余涅槃を求め、それをつくりだされました。有余涅槃は、生きているときの迷いと苦悩を解脱して、悟りと安心を得ることです。お釈迦さまは、仏と法と僧伽への信仰(三帰依)と、持戒、精進、禅定、智慧(菩提)の菩提行と、忍辱と布施の涅槃行の実践により、すべての人々が悟りと安心得る道を説き示されています。

 無余涅槃の無余とは、生命の余りの無くなった死で、死は、無明と煩悩を完全に滅尽させ、無余涅槃は、完全な涅槃の完成であります。そして、仏教者は、成仏の儀式である葬儀をして、完全な仏として残された子孫の生命と信心のなかに再生します。

 無余涅槃を得、完全な仏となった方は、自分の無明と煩悩がないので迷いも苦悩もありません。しかし、残された子孫の人々が幸いであるか否かについて、また、生命を久遠に伝承してもらうための悩みはあります。この悩みを解決するため、無余涅槃に入った仏は、人々に仏教を伝え、信仰してもらい、仏行を実践して、悟りと安心を得ていただくための仕事をされています。

 亡くなって無余涅槃に入り、仏となった人々が集団(僧伽)でまつられているところが寺であり、ここで、子孫のため久遠の説法をされており、私たちは、祈りをとおしてこの説法を聞いているのです。寺は、開祖のお釈迦さま、祖師仏、先祖仏が住んで、久遠の説法をし、私たち有余涅槃の仏教者を救済してくれているところなのです。(駒澤大学名誉教授)
3月の法話(ほとけ)さまたちの(さけ)び」                                                         3月1日号      常真寺住職  皆川廣義 
最近、ご本堂におまつりしている「ほとけさまたち」より、朝夕の勤行の折、「今にような状態だと人類は滅びてしまうのではないか?」との心配の叫びを聞きます。

 世界平和のリーダーだったアメリカの大統領が、アメリカだけの繁栄を目指す政治をはじめたり、世界中の国々も、自分の国だけを中心に生きようとしていますし、日本人も、自分のことだけで精一杯で、家のことや先祖仏の供養などが考えられなくなってきていることを、心配されているのです。

 お釈迦さまは、「これでは、三十数億年前に生命が誕生してから、今生きている生物まで、先祖仏があらゆる生命断絶の危機を一生懸命に乗り越えて、生命と心を伝承してきたことが、徒労に終わり、人類は絶滅
してしまう。」と心配されています。

 お釈迦さまにより、説き示された仏教は、心をもった動物である人間の死の迷いと苦悩を乗り越え、悟りと安心を得ることにより、子孫繁栄と幸せをつくりだす道です。

 お釈迦さまは、私たち生物は、自分のために生まれ、生き、死してゆくのではなく、自分のなかに生きている永遠に生きんとする生命を、永遠に伝承せんがために、生まれ、生き、死してゆくのであると菩提樹下の悟りを通して、説き示されています。全生物は、本来、いただいている生命を永遠に伝承せんがために、一生懸命に生きているのです。この生命の実相(真如)を、最初に自覚された方が、お釈迦さまだったのです。

 仏教は、自分だけの人生を考える宗教でなく、全生命、全生物を非連続の連続をしながら、永遠に伝承することにより、自分個人の死の迷いや恐怖を乗り越え、悟りと安心をつくりだして来たのです。

 仏教者は、常に、全生命、全生物とともに、永遠に生命と心を子孫に伝承せねばならないのです。この全生物の使命を達成することのほうが、自分の思いより大事なのです。自分の人生は、この使命を達成するなか、生命の法則のゆるされる範囲のなかで、自分だけの人生がゆるされているのです。

 最近みられる自分の国だけ、自分の家だけ、自分だけしか考えない行為が、苦悩を生み、争いを生み、戦争を生んで、核兵器使用による人類の滅亡だけでなく、全生物の破滅をもたらす危機があることを、仏さまたちは心配されているのです。

 こんな途方もない危機が、おとずれる可能性を、私たち仏教者が気づかずにいることが、仏さまたちは心配されているのです。

 非力な私たち仏教者は、お釈迦さまの教えのなかにこの危機を乗り越えるものがあることを知りながら、なすすべを失っています。

 世界も国もどうすることもできませんが、とりあえず、自分たちの家だけは、この危機より守らねばなりません。

 常真寺の寺僧伽の諸活動を中心に、みなさんの家僧伽の活動により、この危機を乗り越えてゆく行動をしましょう。まず、自分とこどもたちが立派な仏教者になる聞法修行をし、子ども達に立派な仏教者の家庭(
家僧伽)をつくってもらい、ここで本当の仏教者を育て子孫の繁栄をはかりましょう。そうしなと、家は断絶し、先祖仏さまの努力は無駄になってしまいます。(駒澤大学名誉教授)
 
 4月の法話生命(いのち)(ちから)を学ぼう」 41日号  常真寺住職  皆川廣義
お釈迦さまは、菩提樹下の大いなる悟りによって、自分が個としての生命だけでなく、「不死なる三世十方の生命」であるという、とほうもない自分の真実を、自覚されました。

 生命は、三十数億年前に生まれたとき、生物という乗物と一体となって生まれました。そして、生命を久遠に相続するという、とほうもない願いと力をもちました。

 生命の乗物である生物は、物質で作られていますから時がたつと壊れます。生命は、壊れる前に新しい乗物に乗りかえることによって、久遠に生きる道をつくりだしました。つまり、非連続する前に新しい乗物に連続するという方法で、生命は、久遠を目指し生き続け、私たちまで死なないで生きてきているのです。

 生命の三十数億年の歴史のなかで、大半の生物は、生命を相続できず断絶しています。生き残った生物は、そのような断絶の危機より、強く生きる道をを学びとって、生き抜いてきました。今生きている生物は、とほうもない生命力持ったすぐれた生命の乗物であり、いずれも優劣は、つけられません。

 全生物が、生命の乗物としての使命を守り、生命を久遠に相続する尊い営みをひたすらしているのです。

 ただ、心をもった生物である私たち人間は、「自分のために生まれ、成長し、働き、結婚し、子育てして
いる。」と思っておりますが、本当は、他の生物と同じように、生命を久遠に相続せんがために生まれ、生き、死んでいくのです。このことを忘れているのは、私たちの心にある無明というにごりと煩悩という欲望
が、自覚させてくれないだけです。

 ただ、私たち人間は、心をもった生物として、この生命の役割、法則の枠内で、自分の人生がわずかに許されているだけです。

 人類は、誕生以来、祖父母、父母、子どもの三世代そろったゆずり葉のような家で、生命の伝承と心の伝承をして生き延びてきたのです。これまで人間にとって家は、生命と心を伝承をする大切な場でありました。

 ところが、現代の都市工業化社会では、この大切な家の機能が壊れ、家が崩壊し、全生物共通の使命である生命の伝承すらできなくなってきました。人間という生物は、大変な危機に直面しているのです。

 また、お釈迦さまが、私たちの苦悩の原因として教えてくれた無明と煩悩が、多くの人々において暴走し、争いや戦いをつくりだし、核爆弾に象徴されるような人類絶滅の危機さえつくりだしています。

 私たち仏教者は、自分の死の迷いや苦悩より解脱するためだけでなく、このような煩悩の暴走による人類
や生物の断絶の危機をも、仏法により乗り越えてゆかねばなりません。自分の「不死なる三世十方の生命」のことばを学び、理解し、信仰し、仏行を実践して、人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して安心を得、また、現代の煩悩の暴走による人類滅亡の危機を乗り越えてゆかねばなりません。

 でないと、三十数億年間とほうもない危機を一生懸命のりこえてきた「不死なる三世十方の生命」の努力が無になり、「三世十方の生命」の久遠に生きる願いをやぶり、「三世十方の生命」を本当に死なせてしまうことになります。(駒澤大学名誉教授)
 
5月の法話「常真寺マンダラ」              5月1日号  常真寺住職  皆川廣義
 お釈迦さまによって、説き示された仏教の教えは、難しいと思われていますが、誰でもが理解できるものであります。

 その教えは、根本教理として、①苦と集と道と滅の四諦説と、②仏と法と僧伽(さんが)(仏教者グループ)の三帰依説と、仏智慧を得る戒と精進と禅定と菩提(仏智慧)行と煩悩を滅して安心を得る忍辱と布施の涅槃(安心)行の六度説であります。

 お釈迦さまの生涯とこの根本教理は、仏教者はどうしても学んで、理解し、信じ、実践していただきたいのです。

 まず、お釈迦さまの生涯は、常真寺で常時配布しているパンフレット『教主・釈尊の生涯』を学んで、お釈迦さまを信じ、菩提(仏智慧)と涅槃(安心)の二行を日常生活のなかで自覚的に実践して、悟りと安心を得ましょう。

 お釈迦さまの根本教理は、寺で常時配布しているパンフレット『釈尊の根本教理』を学んで、お釈迦さまの教えを信じ、仏と法と僧伽の三宝を信じ、菩提と涅槃行を日常生活のなかで実践し、悟りと安心を得ましょう。

 この他、この教材の学びを補足するために寺で開かれる、日曜法話などの講座で学んでください。また『常真寺だより』の毎月の法話も参照してください。

 今後、お釈迦さまの生涯と教えを中心に学ぶ講座も、定期的に開く予定です。檀信徒の皆様は、一生涯に一度だけは必ずこれに御参加いただき、学んでいただきたいと思います。ご希望があれば個人を対象とした講話も開かせていただきます。

 三帰依説で説かれる「僧伽(さんが)」は、仏教者の修行グループのことです。寺には、「常真寺檀信徒」という僧伽と、「禅の集い」という僧伽があります。寺の各講座には、両方の僧伽の人々に御参加いただいています。この寺にある僧伽のことを「寺サンガ」と呼びます。

 お釈迦さまは、この寺サンガの下に、メンバーの人々の家に「家サンガ」をつくって寺サンガと家サンガの有機的な活動によって、学びと信仰と実践をして、すべての人々が、死の迷いを乗り越えて人生の目的を悟り、死の恐怖を乗り越えて、安心と生きがいを得た人になっていただきたいと願われています。

 皆様が、このような仏教の悟りと安心を得るため、この常真寺の道場が修行をしやすいように本堂や諸堂を少しづつ皆様のご協力のもと荘厳してきました。また、境内地、墓地、山林、常真寺農場(住職の無償提供)なども整備してきました。やっと、常真寺の道場も一年中花が見られるような清浄域になってきました。本堂にまつられているお釈迦さまも、祖師仏たちも、皆様の先祖仏方々にもありがたいと、よろこんでいただいているように、朝夕のおつとめのおりに思います。

 皆様も、いつかは仏さまとなり、まつられる常真寺が、本堂を中心に、美しい浄土になったことは、うれしいことと思います。

 最近は、山門の前で、檀信徒の皆様だけでなく、多くの人々が祈りをしていただくようになりました。

 仏教では、寺とその境内が仏法により荘厳され、おまいりした人々がその浄域より、仏法を観じ、信じ、悟りと安心が得られることを「寺のマンダラ」化と呼んでいます。(駒澤大学名誉教授)
  
 6月の法話「絶家の悲しみ」                                                            6月1日号  常真寺住職  皆川廣義
  朝日新聞の天声人語に、安土桃山時代に四国ほゞ全土をおさめた名門「長曾我部」家の十七代目当主が、このたび家がなくなるという苦悩を語った『絶家を思う』という本を出されたことが、取り上げられていました。

 私たち人類は、約七〇〇万年前に誕生して以来今日まで、家を中心に家族が共に助け合って、生命を伝承することによって栄えてきました。私たちの先祖は、その間、数えきれない家が絶家し、生命と心の伝承を断絶した悲しみをみて、一生懸命に家族が助け合って家を守り、生命と心を伝承してきてくれたから、今の私たちあるのです。私たちは、平和で豊かな時代に生きているので、この先祖の絶家の悲しみを忘れています。

 今、この絶家の危機は、日本だけでなく全人類の深刻な問題になっています。

 お釈迦さまは、「私たちの先祖が悲しみに直面したときに流した涙の量と、大海の水とがどちらが多いか?」と、常に問いかけて、先祖が大変な努力をして、生命と心を伝承してきたかを、忘れてはならないと、教えております。

 私は、朝夕のおつとめの折に、おまつりしている仏さまたちがこの絶家の危機を心配されて、「住職しっかりしてくれ。」と叫んでいるように感じています。

 寺では、さまざまな活動を通して、「私たちはなんのために生まれ、生き、死んでいくのか。人生の目的はなんなのか。」を、共に学びあっています。これらの学びのなかから、このたび『仏教者の人生観・家庭観・労働観』などをまとめ、みなさんに配布し、共に学んでいただきたいと考えています。

 お釈迦さまが、説き示されたこの絶家の危機をのりこえる道は、私たちの心にある「無明」というにごりと、欲望である「煩悩」を原因として生まれるもので、この無明を滅する菩提(仏さまの正しい智慧と煩悩を滅する涅槃(安心)の行の実践であると教えています。お釈迦さまは、この菩提と涅槃を得る道を①苦と集と道と滅の四諦説と、②仏と法と僧伽(さんが)の三帰依説と、③
持戒と精進と禅定の菩提行と忍辱と布施の涅槃行の実践により、だれでもが、悟りと安心が得られる道として、つくられております。

 お釈迦さまは、一人の人の煩悩でも、全ヒマラヤ山を黄金にしても満足できないとほうもないエネルギーで、野放図にすると危険なものであると、警告しています。

 今、人類は、各自の無明と煩悩を暴走させ、大自然を破壊し、核兵器の使用による人類の絶滅をもつくりだし、そのうえ、この危機をのりこえる智慧さえ、未だ持っていません。

 どうしても、私たちは、お釈迦さまが説かれた仏教により、正しい智慧(菩提)を持ち、欲望(煩悩)を適度にコントロールして、自分の悟りと安心と、それに、人類の絶滅の危機をのりこえていかねばなりません。

 このような深刻な問題を解決できるのが仏教であり、今のように葬式だけの寺ではだめなのです。

 みなさんにも、朝夕の仏壇のおまいりや、月に一度くらいは寺におまいりいただき、仏法を共に学び信仰し、仏の智慧と安心得ていただかないと、大変なことになります。(駒澤大学名誉教授)
 7月の法話「お盆の迎え火と送り火」                                                              7月1日号       常真寺 住職  皆川廣義 
 今年も、お盆を迎える頃となりました。このたびは、お盆の正しい教えを学んでいきたいと思います。

 お釈迦さまは、あるとき弟子の目連(もくれん)さんより、「母が、修行中の自分の身体のことを心配し、心の病にかかり苦しんでおります、どうしたら母の苦しみを救うことができるでしょうか。」との相談を受けました。

 お釈迦さまは、目連さんに「夏のきびしい修行会が修了する七月十五日の朝に、お母さんに全修行者への食事の供養をしていただいたら、その病はいやされるでしょう。」と教えられました。

 目連さんは、母にお釈迦さまのこの教えを伝え、七月十五日の朝、全修行者への食事の供養をしてもらいました。目連さんの母は、食事の供養が終わったとき、お釈迦さまの教え通りに、心の病をみごと癒すことができました。

 目連さんのお母さんは、目連さんがお釈迦さまのもとで、沙門としての樹下石上・三衣一鉢のきびしい行乞生活されているのを心配されて、とうとう心の病になってしまったのです。母の子を思う愛が、心配のあまり心の病をおこしてしまったのです。

 ところが、目連のお母さんは、このたびの夏修行会あけの全修行者への食事の供養をつとめられ、こんなにもたくさんの修行者たちが元気に修行をされているのを見て安心し、また、自分が、自分の子供だけという小さなな愛しかもっていなかったことを気づき、仏さまの大きな十方(じっぽう)(まなこ)をさずかり、深く反省されました。このような目連さんのお母さんの悟りが、自然に病を癒し、安心をつくりだしたのです。

 この目連さんのお母さんが、苦悩より悟りと安心を得る道を、多くの人々にも学んでいただくため、私たちのお盆の行事が生まれました。

 お釈迦さまは、目連さんの母に、自分の子しか考えない小さな愛によって生まれた心の病から、食事の供養を通して大きな愛を目覚めさせ、みごとに苦悩を解脱して、悟りと安心をもたらしてくれたのです。

 お盆の行事は、私たち仏教者が、小さな愛より大きな愛を学び、実践し、悟りと安心を得る修行なのです。

 私たちは、常に、教主のお釈迦さま、仏教を私たちまで伝えてくれた祖師仏、それに自分の家の先祖仏を、寺と仏壇と墓にまつり、常に供養し、仏さまとして信仰しています。

 しかし、このような仏さまへの信仰は、油断すると自分の仏さまだけという小さな愛になり、煩悩に染汚(ぜんな)され苦悩を生むことになります。そこで、お釈迦さまは、子孫がなくなり供養をしてもらえない多くの無縁の仏さまたちを年に一度、お盆のときに、自分たちの寺と仏壇に迎え火を焚き、お迎えして、自分の仏さまと一緒に御供養し、信仰し、お盆が終わると送り火を焚いてお送りすることにより、大きな愛を実践して、自分たちの悟りと安心を深めているのです。

 私たち人間には、自分の家庭を守るという小さな愛も大切であります。しかし、それだけだと、煩悩に染汚されて苦悩をつくりだします。そこで、お釈迦さまは、他の人々への大きな愛の実践をして、煩悩を捨て安心をつくりなさいと教えてくれているのです。

 お盆の迎え火と送り火は、自分の仏のためでなく、子孫がなく無縁になった仏さまのために行じる大きな愛の実践なのです。(駒澤大学名誉教授)
 8月の法話「有余(うよ)(ほとけ)無余(むよ)の仏」                                                     8月1日号       常真寺 住職  皆川廣義 
 お釈迦さまの説かれた言葉に、「有余と無予」という言葉があります。有余は、自分の生命にあまりがあるということで生きているときのことです。無余は、自分の生命に余りがなくなったことで亡くなった後のことです。このたびは、有余の仏(生きているときの仏)と無余の仏(亡くなった後の仏)について、お話します。仏とは、ブッダ(悟りを得て、死の迷いと苦悩を解脱し安心を得た人)のことです。最初に仏になられたのは、教主のお釈迦さまで、そして、その後、すべての仏教者は、お釈迦さまの教えにより、すべて仏となりました。

 まず、お釈迦さまの教えにもとづいて自分がどうしたら有余の仏になることができるかについてお話します。お釈迦さまは、人々が「有余の仏」となるには、まず、お釈迦さまの生涯を学んで、正しく理解し、お釈迦さまを仏として信じていただきたいと教えています。

 次に、苦・集・道・滅の四諦説を学んで正しく理解し、仏道により自分の死の迷いや苦悩の原因である無明と煩悩を滅して、安心と生きがいが得られることを、信智していただきます。

 その上、仏教者の修行者グループ(僧伽)に生涯参加し、そこで、仏と法と僧伽の三宝を、自分の悟りと安心を得るよりどころとし、信仰いたします。

 さらに、仏と法と僧伽への帰依と信仰の上に、六度の仏行を学び、正しく理解して、迷いの原因である無明を滅し解脱するために、①持戒②精進③禅定④菩提(仏の智慧)を実践して迷いを解脱し、苦悩の原因である煩悩を滅し解脱するために、①忍辱②布施を実践して苦悩を解脱し、安心と生きがいをつくりだします。

 このように、お釈迦さまの生涯を正しく学び信仰し、サンガの中で仏と法と僧伽の帰依と信仰を実践し、悟りと安心を得るために六度を実践し、迷いと苦悩の原因である無明と煩悩を滅している人々を、お釈迦さまは、有余の仏と呼んでいます。つまり、私たち仏教者は、皆、有余の仏なのです。

 次に、お釈迦さまは、「無余の仏」となるのは、亡くなりましたら通夜の儀式をしていただき、人としての別れをしていただきます。そして、残された人々は、亡くなった人の生涯を心にとどめ、亡き人の人生における良きことはせよとの教えとし、悪しきことはするなとの教えとして学び、自分の人生に生かしていきます。その上、葬儀をして、お釈迦さまの教えにもとづき、亡くなられた方を仏さまとして再生していただきます。仏さまに再生された方を「外なる仏」として寺と家の仏壇と墓にまつり、供養し、信仰します。

 残された人々は、外なる仏としてまつり、供養し信仰することにより、自分の信心のなかに仏として内在化し、「内なる仏」としていただいていきます。外なる仏をまつり供養し信仰することを通して内なる仏をそだて、内なる仏の信仰がまた、外なる仏への信仰を深めて、相互に影響しあいながら仏への信仰が深まり、残された人々の信心のなかに生涯仏として共生していただく信心が生まれます。残された人々は、自分の信心のなかに共生している仏と祈りを通し対話し、生きる知恵や安心を授かります。仏共生の信仰の深化により仏との対話が生まれ、これが仏功徳を共有する信心となります。そして、この内なる仏として再生した「無余の仏」より、残された人々に悟りと安心の教えを聴く、不思議が生まれているのです。

 無余の仏となった仏教者は、子孫が生命と仏法の伝承をするかぎり、彼ら生命と信心のなかで久遠実成の仏となり、説法し続ける仕事をしてゆくのです。(駒澤大学名誉教授)
 9月有余(うよ)無余(むよ)の彼岸」                                                                           9月1日号       常真寺 住職  皆川廣義
 有余は生きているとき、無余は亡くなった後という意味で、有余の彼岸は生きているときの仏さまの世界、無余の彼岸は亡くなった後の仏さまの世界ということです。

 お釈迦さまは、幸せな人生を二十代の後半まで過ごされましたが、二十九歳のとき身近な人々の老病死の苦悩から、自分にもこのような老病死の苦悩がいつかおとずれることを悟り、自分の死を自覚され、深い死の迷いと苦悩をもたれました。そこで、お釈迦さまは、この死の迷いと苦悩を解脱し、悟りと安心を得るため、国王への道を捨てて、樹下石上、三衣一鉢の行乞生活をする沙門という求道者になりました。

 お釈迦さまは、厳しい六年にわたる修行の後に、ブッダガヤの菩提樹下の坐禅行中に、自分が「久遠なる三世十方の生命」であることを悟り、この生命のありようのなかに、課題であった、人生の目的と生死の苦悩からの解脱の道を発見し、自分の沙門としての求道は、完成しました。

 しかし、お釈迦さまは、自分の課題を解決した後、すべての人も自分と同じ課題を持っており、これを救わねばならないと決意され、三十五歳より八十歳で亡くなるまで、数千人の若き仲間(伝道者)たちと四十五年の伝道を展開されました。

 お釈迦さまは、自分一人では、すべての人々に伝道できないと考え、まず、伝道者を養成し、彼らと伝道者集団をつくり、一年のうち、雨季は学習修行、乾季は人々へ伝道実践をしました。まず、インドのすべての人々への伝道が完成すると、次に、外国の人々への伝道を実践されました。そして、四十五年の伝道の後半では、自分が、死んだ後の人々への伝道をどのようにすべきかを考え、死んだ後の伝道のため仏教という宗教を完成されました。このお釈迦さまがつくられた仏教のおかげで、二千五百年後の私たちの仏教が今あるのです。

 お釈迦さまのつくられた仏教は、僧(伝道者)と仏教徒(信者)の二つの修行者集団(サンガ)からなり、人々に、このサンガに生涯参加していただき、サンガの活動のなかで、苦、集、道、滅の四諦説を正しく学び、仏と法とサンガの三宝に帰依信仰し、迷いの原因たる無明を滅する持戒、精進、禅定、菩提の悟りを得る行と、苦の原因たる煩悩を滅する忍辱、布施の安心を得る行の六度説の実践により、すべての人々が人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して、安心が得られる道であります。

 お釈迦さまは、仏教のサンガに入り、生涯にわたる三帰依の信仰と六度行の実践をした人々を、みな成仏させ有余の仏さまとしました。

 その上、お釈迦さまは、ご自分が亡くなった後の人々を救うために、亡くなった後、自分もすべての有余の仏も、みな無余の仏となり、子孫に生命と仏教の信仰と財の三つの伝承をはかるため、無余の仏として、久遠に子孫を成仏させる仏教を、おつくりいただいているのです。
 
 このようなお釈迦さまの教えにより、すべての仏教者は、まず、有余の仏となり、亡くなった後も、葬儀をして無余の仏となり、仏法を説教し続け、子孫繁栄をつくりだしているのです。(駒澤大学名誉教授)
10月の法話 「無余(むよ)の仏の仕事」                                             10月1日      常真寺  住職 皆川 廣義 
 お釈迦さまは、有余(うよ)(生きているとき)の仏と、無余(亡くなった後)の仏について説き示されています。 仏とは、自分の死がもたらす迷いと苦悩を解脱して、悟りと安心を得た人のことです。
 
 仏教の学びは、はじめに、お釈迦さまの生涯を学び、その人柄を正しく理解し、信頼することによりはじまります。

 お釈迦さまの根本教理は、四諦説と三帰依説と六度説の三つよりなっています。四諦説で仏教を正しく理解し、三帰依説で、仏と法と僧伽(宗教者集団)に帰依し、六度説で、持戒・精進・禅定・菩提・忍辱・布施の六行を実践し、誰もが悟りと安心を得られると教えています。

 私たちは、自分の参加する僧伽のなかで、この根本の教えを正しく学び、正しく信仰し、正しく実践して人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱し、安心を得て、「有余の仏」となります。

 そしてまた、私たちは、亡くなった後に、「無余の仏」となり、大切な仕事をせねばならないのです。

 この大切な仕事をするために、亡くなりますと、仏教の葬儀をして仏となり、お釈迦さまより仏さまの名前(法名)をうけ「先祖仏」となります。仏教では、死は、自分の無明と煩悩の完全な滅尽であり、自分を無化して子孫への生きる場をゆずる慈悲行の完成であると教えています。

 亡くなって先祖仏となった方は、子孫により、菩提寺と仏壇と墓の三カ所に「外なる仏」としてまつられ、供養をうけ、先祖仏として信仰されます。

 先祖仏は、「外なる仏」さまとして信仰されることを通して、子孫の信心と生命のなかに、「内なる仏」さまとして内在化されることになります。そして、外なる仏さまの信仰と内なる仏さまの信仰が、相互に影響しあいながら、だんだんと信仰が自然に深まって、子孫の人々の信心のなかに仏さまが共に生きているという「仏共生の信仰」が確立してきます。この仏共生という信仰が生まれてくると、子孫の人々は、祈りを通して、生前と同じようにこの内なる仏さまと対話することができるようになります。そして、この対話のなかで、苦しみをのりこえる智慧をさずかったり、喜びを共有することができるのです。

 このような仏共生の信仰により仏さまから智慧や喜びをさずかることを、仏さまの功徳が子孫に共有され「仏功徳共有の信仰」が確立します。

 以上のように仏教では、亡くなった後に葬儀をし、私たちは先祖仏となり、残された子孫の信心と生命のなかに再生(成仏)し、彼らの祈りを通しての対話のなかに、子孫に悟りと安心を与える大切な仕事をすることになります。

 このようなことから、仏教者の家では、親より子への生命と信心と財産の伝承が生まれ、家門繁栄と子孫安寧がはかられてきたのです。このことが子孫によってかなえられると、私たちも有余の人生だけでなく、亡くなったのちも無余の仏として、私の生命が三十数億年生きてきたように、久遠をめざして子孫の生命と信心のなかに生き続けることになります。(駒澤大学名誉教授)
11月の法話 「煩悩(ぼんのう)暴走(ぼうそう)                                                           11月1日      常真寺  住職 皆川 廣義
 今、生きている私たち人類は、約三十万年前、この地球上に生まれ、他の人類と多くの生物をほろぼして生き残ってきました。その間、血のつながりのある家族を単位として家をつくり、他の人類や生物と戦って勝ち抜き生きてきました。このような私たち人類の歴史は、戦いに強いものだけが生き残り、他の生物に比して万物の霊長であるという自信を持たせました。

 このため平和や共存共栄を説く宗教までもが、今、戦争を止めることができなくなってきています。

 核による戦争は、勝っても負けても全人類の滅亡をもたらすことを知りながら、貧しい国の人々が食べるものをこと欠きながら、一生懸命に核爆弾をつくるようなおろかなことをしているのです。そして周りの国の人々は、なすすべもなく、恐怖におののいているのです。

 お釈迦さまは、このような人類のつくりだす危機の原因は、人類の心のなかにある「無明」というにごりとそれがつくりだす「煩悩」にあると説き示されています。

 お釈迦さまは、途方もない危険性をつくりだす煩悩について、「一人の煩悩でも、全ヒマラヤ山を黄金にしても満足しないものである。」と注意されています。

 私たち生物は、この地球に三十数億年前に誕生し、その時より「生命」を生物という乗物にのせて、久遠に生きんとする願いのもとに生きてきています。生命も生物も、久遠に生きたいという願いをもった存在であります。

 多くの生物のなかで、人類だけが心をもった生物で、この心の中にやっかいな無明と煩悩をもっているのです。そして油断すると煩悩が暴走することになり、核爆弾などは、この煩悩の暴走がつくりだしているものです。

 世界宗教である仏教やキリスト教には、この煩悩をコントロールして人類滅亡の危機をのりこえる力があります。

 どうしても、この煩悩の暴走の危機をのりこえるため、私たちは、お釈迦さまの教えにより生まれた仏智慧(菩提)と慈悲により、この人類の危機をのりこえていかねばなりません。そのために、まず、私たち仏教者は、お釈迦さまの説き示された根本教理(①四諦説、②三帰依説、③六度説)を一人でも多くの人々へ語り示し、共に学び、信じ、実践して、人々に仏智慧と慈悲の心をつくりだしてゆかねばなりません。

 苦・集・道・滅の四諦説は、自分がなんのために生まれ、生き、死んでゆくのかという人生の目的を明示した教えです。仏・法・僧伽の三帰依説は、仏と法と僧伽の仏教の三つの宝を学び、信じ、実践することにより、豊かな仏智慧と安心を得る教えです。六度説は、持戒・精進・禅定・菩提の仏智慧を得る行と、忍辱・布施による苦の原因たる煩悩を滅し安心を得る行の教えです。

 どうしても、私たち人類は、お釈迦さまの教えを、学び、信仰し、実践することにより、煩悩の暴走の危機をとめ、全生物の共存共栄する世界をつくらねばなりません。(駒澤大学名誉教授) 
 12月の法話 「菩提樹下(ぼだいじゅげ)成道と伝道                                                                        12月1日 常真寺  住職 皆川 廣義
  お釈迦さまは、二十九歳のとき、「自分は、なんのために生まれ、生き、死にたくないのにみずから死ぬのか」という迷いから正しい人生の目的を悟り、また、「どうしたら死の恐怖を乗り越えて、安らかに生きて行くことができるのか」という二つの課題をもたれ、この課題を解決するために、皇太子として国王になる道を捨てて、きびしい修行をする求道者になられました。

 はじめ、禅定者について、聞法と坐禅修行をされ、迷いや苦悩は、自分の心にある無明というにごりと煩悩という欲望にあると悟り、この迷いと苦悩の原因を捨てるため、迷いの原因を捨てる菩提行と苦の原因を捨てる涅槃行の実践を、ウルヴェーラの苦行道場で実践し、苦楽の中道の悟りを得た後、十二月八日の朝に、ブッダガヤの菩提樹下の大いなる悟りにより、この二つの課題を解決し、悟りと安心を得る道を発見されました。このお釈迦さまの求道の完成を「菩提樹下の成道」といいます。

 自分の死の迷いと苦悩から解脱への道を発見したお釈迦さまは、次に、この道をすべての人々に伝えて、人々の氏の迷いと苦悩を救済せねばならないと決意されました。

 お釈迦さまは、文字通り、すべての人々に仏教の道を伝えるためには、自分一人では不可能であると自覚し、はじめに、共に伝道をする若き伝道者(僧伽)を数千人養成されました。この数千人伝道者たちによって、数年で、全インドの人々への仏教の伝道をされました。

 次に、当時、交易でインドに来ている外国人へ伝道し、帰国後、仏教を伝道していただくことにしました。つまり、海外伝道を展開されたのです。

 その次には、自分たち伝道者が亡くなった後の人々にどのように仏教を伝道して、人々の死の迷いと苦悩を救済していくかを考え、四十五年間の伝道の後半は、このことの実現のため、諸々の方策をたて、実践し、仏教をつくりだしました。つまり、お釈迦さまは、私たち後世の人々のことを考えて八十歳で亡くなるまで、沙門として最下端のきびしい生活をしながら、無報酬で、四十五年間の伝道をされたことにより、私たちの仏教が今あるのです。

 お釈迦さまは、自分の死の迷いと苦悩の解脱のため宗教者になり、その問題解決後は、文字通り、すべての人々を救うため、数千人の弟子たちと最下端のきびしい生活をしながら私たち全人類のため四十五年の伝道をされたのです。このようなお釈迦さまの伝道によって現代の全世界の仏教があることを、私たちは忘れてはなりません。

 お釈迦さまが、菩提樹下の大いなる悟りによって自覚された、私たちの「三世十方の生命」の真実のありようと、この生命が語る私たちの人生の目的と生死の苦悩からの解脱の道たる仏教を、正しく学びとり、自分の人生の目的と生死の苦悩からの解脱を得て、悟りと安心を得なければ、私たちは、お釈迦さまと数千人の弟子たちの四十五年の伝道の努力にむくいられません。

 仏教者の人生の目的は、生物としての生命を久遠に伝承することと、仏法の伝道を通して自分の人生を豊かに生き、子孫が、生命の伝承と仏法の伝道を通して、安心と生きがいのある人生を創造していただくことにあります。         (駒澤大学名誉教授)

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