【1月の法話】「人生の目的は」 | 【7月の法話】「不死なる三世十方の生命 が、不死なる三世十方仏になる」 |
【2月の法話】「涅槃の教え」 | 【8月の法話】「お盆・まことのむかえ火 ・送り火」 |
【3月の法話】「お釈迦さまの如来と如去」 | 【9月の法話】「私たちはなぜ死ぬのか」 |
【4月の法話】「戒名と仏名について」 | 【10月の法話】「大切な僧伽」 |
【5月の法話】「大切な仏教の根本教理」 | 【11月の法話】「凡夫より仏の世界へ」 |
【6月の法話】「自分の生命に学ぶ」 | 【12月の法話】「お釈迦さまの成道」 |
1月の法話「人生の目的は」 1月1日号 常真寺住職 皆川廣義 | |
年のはじめに、仏教者として、自分の人生の目的は、なんなのかを、お釈迦さまの教えのなかに学んでいきたいと思います。 お釈迦さまは、平和な時代に、王族として生まれ、物質的にも、精神的にもめぐまれた環境の中で幸せに生活していました。しかし、二十代後半になって、身近な人の老病死の苦悩をみて、自分にもあにような一大事があると教えられ、死の矛盾と苦悩を悟ることになります。 自分の過去と現在と未来を考え、「自分はなぜ生まれ、生き、そして死にたくないのに自ら死してゆくのか。自分の人生の目的はなんなのか。またこの死の苦悩をどうしたら解脱して、安心を得ることができるのか。」という二つの課題を持たれました。 お釈迦さまは、この課題を解決するため、国王への道を捨てて、沙門という修行者になりました。幸いにも、六年の求道の後にブッダガヤの菩提樹下で坐禅中に、大いなる悟りを得て、この課題を解決されました。 お釈迦さまの菩提樹下の悟りは、自分は自分だけでなく「不死なる三世十方の生命」なのであるとの自覚です。自分の生命は、自分だけの生命でなく、時間的には、過去に生まれてより、三十数億年も親より子へと生き続け自分につらなり、さらに、子孫へと永遠に生きんと不死を求めている生命であり、それが過去、現在、未来の三世の生命であると悟られたのであります。 また空間的には、自分の生命は、自分をつくり、全人類をつくり、全生物をつくっている生命であり、全生物は生命同根であり、十方の生命であると悟られたのです。 そして、お釈迦さまは、この途方もない不死なる三世十方の生命のありようのなかに、課題であった人生の目的と生死の苦悩からの解脱の道を発見せられたのです。 私たち生物は、自分のために生まれたのではなく、生命を永遠に伝承するために生まれ、生き、死しているのです。今の人は、自分のための人生だとばかり思っていますが、私たち仏教者は、まず、しっかりとこのことを自覚せねばなりません。 私たち生物は、生命の乗物であり、物質によってつくられているためいつか壊れるもので、非連続で永遠の乗物になりません。そこで、生命は、生まれた時より、非連続する前に親より子へと転生し、永遠を求めて生きているのです。また、生物は物質でもあるので、生きるための空間を必要とします。生物が死なないと地球は一年もたたず、すぐ生物でいっぱいになり、生物の生きる空間がなくなり、生物は、絶滅することになります。 心をもった生物である私たち人間は、心のなかに自分を持ち、自分が主人公だと思ていますが、真実は自分が主人公ではなく、不死なる三世十方の生命がまことの主人公なのであります。私たち仏教者は、この三世十方の生命としての自分と、心のなかで自分を主人公とした二面があることを自覚して、生きてゆかねばならないのです。つまり、お釈迦さまの教えは、仏法と世法を正しく自覚し、三帰依の信仰と菩提と涅槃行(六度)の実践により、人生の目的を悟り、死苦を解脱して安心を決定する道なのです。 お釈迦さまは、この悟りと安心を得ることが、仏教者の人生の目的であると教えているのです。(駒澤大学名誉教授) |
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2月の法話「涅槃の教え」 2月1日号 常真寺住職 皆川廣義 | |
今月の十五日は、お釈迦さまが、クシナガラのサーラの林で亡くなられた日です。寺では、お釈迦さまの八十年の御生涯をしのび、そのお志を深く心にとどめるため、本堂に『釈迦涅槃図』をおかざりし『涅槃会』をつとめています。 涅槃とは、ニルバーナというインドの言葉の中国における音訳です。言葉の意味は、私たちの苦悩の原因が煩悩(欲)であり、この煩悩を断じて得られる安心のことであります。 私たち仏教者は、お釈迦さまが、ご自分の死をみずから成ずることにより、すべての、煩悩をすてて完全な涅槃を成じられたと、受け取っています。 お釈迦さまは、二つの涅槃があると説き示されています。一つは「有余涅槃」、二つは「無余涅槃」であります。有余とは、生命があるときという意味で、生きているときに六度の忍辱や布施の涅槃行を実践して、苦の原因である煩悩を捨てて成じた安心のことです。無余とは、生命がなくなること、つまり、死することによって煩悩を捨てて得る完全な安心のことです。仏教者の死は、すべての煩悩を捨てた完全な涅槃であり、安心であり、死後に自分のことで苦悩することはありません。お釈迦さまは、死して地獄に落ちて苦悩するとは説いていません。ただ、残した人々のことは心配で苦しむこともあると語っています。したがって、残された人々は、亡くなって仏さまになった人が、心配し苦悩することはしてはならないのです。それが亡くなった仏への一番の供養になり、仏さまたちも残された人々の幸せがよろこびであるのです。 私たち仏教者が、仏法を学び、信じ、行じるのは、まず、自分の生きているときの安心(有余の涅槃)を得るためであります。つまり、生きているときに生じる無明と煩悩による苦悩を解脱して、安心と生きがいをつくりだすために私たちは菩提行と涅槃行の仏道を歩んでいるのです。自分の死は、自分のすべてが、無化されることで老病死の苦と恐怖をともなうものであります。この一大事を乗り越えて、安らかに死を受容するのが仏道です。 お釈迦さまは、凡夫としての私たちが死後どうなるかという心配を、無余の涅槃の教えにより取り除いてくれています。それは、私たち仏教者は、亡くなってお釈迦さまの教えにもとづき仏教の葬儀をしてお釈迦さまより仏さまの名をいただき完全な仏となります。そして、残された子孫によって寺と仏壇と墓の三カ所に、仏名を記してまつり、供養し、信仰していただくことになります。この寺と仏壇と墓にまつられた仏を、外なる仏さまと呼びます。この外なる三つの仏さまをまつり、供養し、信仰することは、残された人々が自分の信心のなかに外なる仏さまを内在化し、内なる仏さまとしていただいたことになります。この内なる仏への信仰は、外なる仏へのまつり、供養、信仰をうみ、また外なる仏の信仰が内なる仏の信仰を深めて、相互に影響しあって信仰が深まり、常に自分の信心のなかに仏さまが生きている仏共生の信仰をつくりだします。 家サンガにおいて自分と子孫にこの仏共生の信仰が生まれると、私たち仏教者は、死した後に葬儀をし、仏として再生し、子孫の生命と信仰のなかに仏として生き続け、子孫が、お釈迦さまの教えを信仰して生命と仏法の伝承をしているかぎり、久遠の仏として彼らの生命と信仰のなかに生き続けることになります。 このように無余涅槃の教えは、仏教者が死後、仏となり、子孫の生命と信仰のなかに再生することによって、自分の安心と子孫の繁栄の道をつくりだすのです。また、それは、同時に、久遠に生きんとしている自分の当体である「不死なる三世十方の生命」の願いを成就するものでもあります。 (駒澤大学名誉教授) |
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<お布施の話> 涅槃会を迎えるにあたって お布施は、檀家の皆さんより寺へ、おさめる金品のことです。 布施は、インドの言葉「ダーナ」を中国語訳したものです。 仏教徒は、お釈迦さまの教えにもとづいて、自分の苦悩の原因が煩悩(欲)にあると自覚し、自分の煩悩を捨てて、安心を得るために、自分の大切な金品を仏さまにおさめるのです。 大切なものには、煩悩がついており、それを他者にもらっていただいて、一緒に煩悩も捨てて安心をつくるのです。 布施は、自分の安心を得るための行で、自利行であります。しかし、金品に困っている人々にとって布施をいただくことは、ありがたいことで、利他行となります。つまり、仏教の布施は、自分の安心を得る行でありながら人々に安心を与える行で、二つのはたらきを持ったすぐれた実践です。 私たち仏教徒のする大きな布施行は、自分の死です。私たちは、自ら死することによって、すべての金品と生きる場を子孫に譲ります。 仏教徒の死は、布施行の完成で、これにより、完全な仏となれるのです。 布施行の正しい理解をして、布施行を行じていきましょう。 |
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3月の法話「お釈迦さまの 3月1日号 常真寺住職 皆川廣義 |
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お釈迦さまは、大切な教えとして、「如来」と「如去」という教えを説き示されています。 「如来」とは、「 お釈迦さまは、平和な時代に物心両面に恵まれた環境で生まれ成長されて、幸せな生活をしていましたが、二十代後半になって、身近な人々の老い、病い、死の苦悩から、自分にもあのような老病死の一大事があることを知らされ、今までの幸せは、打ち壊され、死への迷いと苦悩をもつことになりました。お釈迦さまは、このことを、隣人の老病死の苦悩が、自分に見えなかった自分の老病死の苦悩を如来となって知らせてくれたと学びとりました。つまり、お釈迦さまは、隣人の老病死の苦悩が、私たち仏教者の如来なのだと教えられているのです。 次に、「如去」とは、「 お釈迦さまは、沙門としての六年の求道の後に、菩提樹下の成道より、自分の真実が、「不死なる三世十方の お釈迦さまは、成道後、自分が悟った「不死なる三世十方の生命」の真如なる教えは、心をもった生物あるすべての人間に、伝えなければならないと決意し、すべての人々へ、この教えを伝えるため、八十歳でクシナガラのサーラの林で亡くなられるまで、四十五年間の伝道を実践されました。 お釈迦さまは、六年の求道により如去し、菩提樹下の成道により真如を得られました。お釈迦さまはここでとどまらず、如来して、私たちのために四十五年の伝道を展開されてゆくことにより、私たちの仏教(仏法)が生まれたのです。言い換えるならば、仏教は、お釈迦さまの四十五年の伝道という如来により、お釈迦さまが如来になって生まれたのです。ですから、お釈迦さまのことを釈迦如来とお呼びするのです。 お釈迦さまの御生涯を学ぶと、まず、二十九歳のとき、隣人の老病死苦を如来として受け取り、自分の老病死苦を求道のエネルギーに転依しながら、如去としての六年の求道が、菩提樹下の成道をつくりだし、悟られた自分の真実のありようのなかに、如去した目的が得られたのです。また、お釈迦さまは、この不死なる三世十方の生命なる真如をすべての人々に伝えねばならないと決意して、四十五年の伝道を如来として実践されたのです。 お釈迦さまの「真如来」、「真如去」の教えは、ご自身の御生涯そのものであり、だれもが学び、信じ、実践できるすぐれた教えであります。 私たちも、お釈迦さまより、自分の真如を学び、信じることにより如去し、学び得た仏法を伝道活動により、一人でも多くの人々に伝え、サンガで助け合いながら修行し、如来となっていかなければなりません。そして、私たちの仏法は、如来と如去の果てしない繰り返しのなかに生き続けていくのです。(駒澤大学名誉教授) |
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4月の法話「 4月1日号 常真寺住職 皆川廣義 |
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1月24日の朝日新聞に「戒名とは何か」という投稿がありました。このたびは、「 一般に、仏さまのの名前を「戒名」と呼んでいますが、正しくは、「仏名(仏さまになった方の御名前)」と呼びます。お釈迦さまは、自分の死がもたらす迷いと苦悩を解脱するため、仏法を学び正しく理解した上で、仏と法とサンガの三帰依を信仰し、仏行(六波羅蜜)の実践をして、人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱し、安心と生きがいを得た人のことを、仏さまと呼び、仏さまになった御名前を『 現在わが国では、菩提寺の住職についてお釈迦さまの仏法を学び、信じ、仏行を実践をして、悟りと安心を得て『得度式』をし、お釈迦さまより「仏名」をいただいている方は少ないです。 ただ、すべての仏教者、亡くなられると、菩提寺の住職により、仏教の葬儀をしていただいて、仏さまとなり、お釈迦さまより、「仏名」をいただき、その証明書としての「御血脈」を授かっています。 仏教では、生きているうちに得度式をして「仏名」をいただいて仏さまになられた方と、亡くなって仏教の葬儀をして「仏名」をいただいて仏さまになられた方の二つの仏さまがいることになります。 現在わが国では、亡くなった人を仏さまと呼びますが、これは正しくありません。正しくは、仏教者であった人が、亡くなって必ず仏教の葬儀をして、「仏名」と『御血脈』を授かって、仏となっているのです。 仏教では、葬儀をして仏さまになった方を、菩提寺と家の仏壇と墓の三カ所に、それぞれ「仏名」を記しておまつりし、供養し、信仰します。この寺と仏壇に「仏名」を記して位牌としてまつり、墓の石塔に「仏」を記してまつられている仏を、外なる仏と呼びます。 次に、残された人々は、この三カ所にまつられた仏さまを供養し、信仰することにより、この仏さまを自分の生命と信心のなかに内在化し、内なる仏さまとして、生涯いただいていきます。 この外なる仏と内なる仏への信仰は、外なる仏の信仰が内なる仏の信仰をつくり、また、その内なる仏の信仰が外なる仏への信仰をつくりだして、相互にはたらきあいながら仏さまへの信仰を深めていき、自分の生命と信心のなかに仏さまが常に共生している信仰をつくりだします。 また、仏共生の信仰は、仏さまとの祈りを通しての対話のなかに、生きる智慧やよろこびをさずかり、仏さまの功徳を共有する信仰に深化します。この仏功徳共有の信仰によって、自分の悟りと安心をいただくことになり、仏道が成就するのです。 お釈迦さまは、仏教の葬儀を通し、外なる仏の信仰と内なる仏の信仰により、仏共生の信仰と仏功徳共有の信仰をつくり、これを子々孫々に伝承相続して、子孫の繁栄と幸福をつくりだしていきなさいと説き示されています。また、このことを実現するためには、仏法を正しく子孫に伝道していかねばならないと語っています。 この仏功徳共有の信仰が、子孫に伝承されているかぎり、私たち仏教者は、死して終わりでなく仏となり、子孫の生命と信心のなかに仏として再生し続けていき、自分の生涯のすべての営みが、子孫にとって仏としての教えとなり、子孫に久遠に生き続けていくのです。 (駒澤大学名誉教授) |
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5月の法話「大切な仏教の根本教理」 5月1日号 常真寺住職 皆川廣義 | |
仏教者として、人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して安心を得るためには、教主であるお釈迦さまの根本教理を正しく学び、理解し、信仰することが、大切なことです。お釈迦さまは、仏教者の誰もが、学ばなくてはならない教理として、①四諦説、②三帰依説、③六度説の三教理を説き示されています。 苦・集・道・滅の四諦説は、四つのキーワードで、仏教を誰にでも正しく理解していただくため説かれたものです。 仏法・僧・ 持戒・精進・禅定・智慧(菩提)・忍辱・布施の六度説は、六つのキーワードで、仏教者の人生の目的の悟り、生死の苦悩からの解脱の道を説かれたものです。 この四諦、三帰依、六度の三説は、すべての仏教者が正しく学び、理解し、信じ、実践していただかねばならない教えであります。 この仏教の根本教理のなかで、まず初めに正しく学んでいただくのは、四諦説で、次に三帰依説、最後は六度説です。 四諦説の、苦諦は、すべての人に死があり、それは迷いであり、恐怖であることを、自覚しなさいと教えています。また、死苦はすべての苦悩の根本苦であり、死苦が解決することによりすべての苦悩を解決することができると教えています。さらに、私たちは、何のために生まれ、生き、死してゆくか、人生の目的はなんなのか、死苦をどのようにして解決し、安心を得ればよいのか、自分の課題として自覚しなさいと教えています。 ②集諦は、お釈迦さまが、人生のと死苦からの解脱を求めて沙門という修行者となり、六年の求道の後に、菩提樹下の成道により、この二つの課題を解決する道を発見し、人生の目的の迷いと死苦の原因は、自分の心にある「無明」と「煩悩」にありと悟られたことを、教えております。 ③道諦は、お釈迦さまが成道の立場より、迷いの原因である無明を滅して、安心を得る実現について教えております。無明を滅して得た智慧を「菩提」といいます。六度の持戒、精進、禅定、智慧の実践をすることにより、誰でもが、無明を滅して菩提を得ることができると教えております。 ④滅諦は、お釈迦さまが成道の立場より、死苦の原因である煩悩を滅して、安心を得る実践について教えております。煩悩を滅して得た安心のことを「涅槃」といいます。六度の忍辱と布施の実践をすることにより、誰もが煩悩を滅して涅槃(安心)得ることができると教えております。 お釈迦さまは、苦楽の中道を農夫の歌より悟られたとき、人は生きている間、すべての無明と煩悩を滅盡することができないこと、無明と煩悩は人が生きるために必要なものでもあること、すべての人は自ら死ぬことによってそのとき誰もが完全に無明と煩悩を滅盡することの三つの大切な教えを、説いています。 仏教者の生きているときの悟りと安心は、生きるための必要苦である無明と煩悩を、六度の実践により、菩提(智慧)と涅槃(安心)へ転じることにより生まれるのです。 (駒澤大学名誉教授) |
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6月の法話 「自分の 6月1日号 常真寺住職 皆川廣義 |
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お釈迦さまは、「常に、自分の生命を見つめ、学びなさい。」と説き、示されています。 自分の生命を、まず時間的に、自分の過去の生命、現在の生命、それに未来の生命、つまり 自分の過去の生命を見つめると、両親より生命をいただいて、自分が誕生したことが解ります。自分の両親もそれぞれの両親より生命をいただいており、さかのぼって自分の先祖をみつめると、この地球上に生命として生まれてより、自分まで死ぬことなく生き続けている生命であると学びとれます。そしてまた自分の現在の生命は、今までと同じように、子どもや子孫に再生し続け、永遠を目指して生きんとしているとほうもない未来の生命でもあるのです。この過去、現在、未来の三世の生命なるありようをじぶんがもっていることを、見つめ、学び、理解することが仏さま(正覚者)の悟りです。 次に、自分の生命を、空間的に見つめ、生命の真実のありようを学びましょう。 自分の生命は、両親よりいただいたもので、親族に連なり、全人類に連なり、全生物に連なります。また驚くべきことに自分個人の生命は地球上に生存した三世の全生物と連なっており、全生物は生命同根なることが学びとることができ、これが仏さまの悟りです。この生命の空間的ありようは、個としての自分の生命が、全生物と一体でもあることを教えてくれているのです。つまり、私たちは、全生物と一卽全なる関係を持っているのです。この生命の真実は、現代の生物科学も、真実であることを証明しています。 お釈迦さまは、このような途方もない「不死なる三世十方の生命」なる存在が、自分の生命であることを菩提樹下の成道のときに悟り、すべての人々にこのことを見つめ、学んでくださいと教えてくれているのです。 お釈迦さまは、菩提樹下の成道により、この自分の「不死なる三世十方の生命」のありようのなかに、出家求道の課題であった自分はなんのために生まれ、生き、そして死んでゆくのかという自分の人生の目的と死の恐怖(悲・カルーナ)を乗り越えて安心と生きがいを得る道を、発見せられたのであります。 お釈迦さまは、死の迷いと死の恐怖は、自分の心のなかにある無明と煩悩を原因としており、無明を滅する菩提行の実践と煩悩を滅する涅槃行の実践により、すべての人々が、悟りと安心を得られると教えられています。また、お釈迦さまは、迷いと死の恐怖の原因である無明と煩悩は、一人の心にあるものだけでもヒマラヤ山を黄金にしても満足しない恐ろしいもので、これを野放図にすると全生物にとって危険なものであることを教えられています。 お釈迦さまの出家求道は、自分の死の迷いと恐怖からの解脱を求める個人的なものでしたが、菩提樹下の成道により、この課題はすべての人々にもあり、すべての人々に死の迷いと恐怖より解脱して安心と生きがいを得る道を伝えねばならないと考え、また、人間の心にある無明と煩悩の危険性をすべての人々に知らせねばならないと考え、途方もない熟慮のもと、八十歳で亡くなるまで多くの弟子達と最下端のきびしい生活をしながら、四十五年の伝道を展開されたのであります。私たちは、このお釈迦さまの四十五年の伝道の心を正しく学びとり、仏教を自分と全人類の宗教としてゆかねばなりません。(駒澤大学名誉教授) |
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7月の法話 「不死なる三世十方の生命が、不死なる三世十方仏になる」 7月1日号 常真寺住職 皆川廣義 | |
お釈迦さまは、平和な時代に釈迦国の皇太子として生まれ、物心両面に恵まれた環境のなかで成長し、強健な身体と深い智慧、それに暖かな心をもった成人となられ、結婚し、子どもも授かり、幸せな生活をされていました。 ところが、二十代後半になり、隣人の老病死の苦しみを見て、自分の死を悟られ、死の迷いと苦悩に打ちのめされました。この迷いと苦悩のなかより、自分の人生の目的を明らめたいという願いと死の苦悩からの解脱の道を求めて、国王への道を捨てて沙門という宗教者となり、解決を求められました。 お釈迦さまは、沙門としてのきびしい求道の後に、ブッダガヤの菩提樹下で坐禅を行じていたとき、大いなる悟りを得て、人生の目的と生死の苦悩からの解脱の道を発見されました。その悟りは、真実の自分が、「不死なる三世十方の生命」であると自覚し、この不死なる三世十方の生命としてのありようのなかに、人生の目的と生死の苦悩からの解脱の道を発見されたのです。人生の迷いと死の恐怖は、自分の心にある無明というにごりと、この無明がつくりだす煩悩に原因すると悟られ、無明を断じる菩提行の実践と、煩悩を滅する涅槃行の実践により、悟りと安心が得られるという真理を悟りました。またこの無明と煩悩はすべての心を持った人間にあり、一人の煩悩だけでもヒマラヤの山を黄金にしても満足しないという、とほうもなく大きく、また危険なものであることを悟り、自分が不死なる三世十方の生命より学び取ったすべてを人々に伝道し、救わねばならないと決意されました。 そこで、お釈迦さまは、自分の悟りと安心のためと、すべての人々を救わねばならないと大いなる願いを起こし、三十五歳より八十歳で亡くなるまで沙門としてきびしい生活をしながら四十五年間、多くの弟子たちとともに伝道を展開されました。 お釈迦さまの四十五年の伝道は、伝道する人を選ばぬすべての人々への伝道で、まず、始めに自分ひとりではすべての人々を救うことはできないので、自分とともに伝道をしてくれる若き僧を育てました。次に、育成した僧たちと共に伝道し、全インドの人々に布教しました。次には、インドへ商売で来ている外国人に伝道し、外国への伝道をされました。最後は、自分たちが死んだ後にも人々は生き続けているので、この人々を救う伝道を考え、最も時間をかけて、仏教という宗教をつくりだしました。 このため、お釈迦さまは、四諦、三帰依、六度説などの根本教理と伝道の場としての寺サンガや家サンガ などの組織をつくられました。そして自分も死後、成仏の儀式としての葬儀をし、完全な仏となり、弟子たちや信者の生命と信心のなかに久遠実成の仏として再生し、久遠に説法し続ける道をつくりだしました。 また、お釈迦さまは、自分だけでなく、すべての仏教者が、死によりすべての無明と煩悩を捨てて完全な 仏となり、子孫の生命と信心のなかに仏として再生し続けて行く道をもつくりだしています。このように仏教者は、亡くなって葬儀をして久遠実成の仏となり、子孫の生命と信心のなかに再生し続け、子孫の繁栄と安心をつくりだしているのです。 お釈迦さまの説き示された仏法は、「自分の不死なる三世十方の生命を悟り、不死なる久遠の三世十方仏となり、自分とすべての人々を救済する。」尊い教えであります。(駒澤大学名誉教授) |
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8月の法話 「お盆・まことの迎え火・送り火」 8月1日号 常真寺住職 皆川廣義 | |
仏教のお盆の行事は、お釈迦さまが、弟子 目蓮さんは、ナーランダの裕福な家の長男でしたが、お釈迦さまの弟子となり、樹下石上・三衣一鉢のきびしい修行と伝道をされていました。目連さんの母は、可愛いわが子が厳しい修行と伝道で、身体を壊さないかといろいろと心配をされ、とうとう夜も寝ることができなくなり、心の病にかかってしまわれました。 目連さんは、このことを人づてに知り、心配してお釈迦さまにどうしたら母の病をなおすことができるか相談されました。お釈迦さまは、目連さんに「夏修行のあける七月十五日にお母さんより全修行僧へ食事の供養していただけたら、その病はなおる。」と説き示されました。 目連さんは、このことを母に伝え、全修行僧への食事の供養をお願いしました。お母さんは、みずから食事をつくり、それを道場に持参し、全修行僧に供養されました。そして、お母さんは、供養が終了し、ほっとしたとき、心の病が自然に消えてしまったことに気づきました。お母さんは、自分はわが子目連だけを心配していたが、こんなにも多くの若き修行者が、お釈迦さまのもとで厳しい修行をしていることを知り、自分がわが子だけという小さな愛しかもっていなかったことを自覚し、反省され、すべての人々への大きな愛をもたねばと思い、その大きな愛の行為が、お釈迦さまの説示された全修行僧への食事の供養であったと悟られ、自然に病が消えてしまったのです。つまり、お母さんは小さな愛によって悩み、大きな愛の実践により、煩悩が捨てられ安心が生まれたのです。 このようなお釈迦さまの、小さな愛より、大きな愛の実践の教えにより、仏教のお盆の行事は生まれました。 私たち仏教者は、亡くなって仏さまになった方を寺と仏壇と墓の三か所に、外なる仏さまとしておまつりし、常に供養し、信仰しています。しかし、これだけだと自分の先祖仏だけという小さな愛で終わり、目連のお母さんと同じ悩みを生むことになります。そこで、年に一度お盆の行事をつくり、自分たちの先祖仏以外の無縁になっている仏さまを家に迎えて、自分の先祖仏と共におまつりし、供養して、小さな愛より大きな愛を自覚的に実践して、悟りと安心をつくりだしてきたのです。このため、寺では、お盆のとき、皆川家の仏壇に、三世十方仏の位牌をおまつりし、供養しています。 お盆に迎え火と送り火を焚くのは、自分の先祖仏を迎え、送るのではなく、無縁の仏さまを迎え、送っているのです。自分たちの先祖仏は、寺と仏壇と墓に常におまつりし、供養しています。したがって、先祖仏は、迎えることも送ることも必要ありません。 お盆に、自分の先祖さまを迎え、送るというのは、寺と仏壇をもたない他の宗教の行事であります。このような仏教外の先祖供養にまどわされないで、お釈迦さまの教えを正しく学び、小さな愛より大きな愛の実践としてのお盆を行い、子々孫々の仏法による繁栄をはかりましょう。(駒澤大学名誉教授) |
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9月の法話 「私たちはなぜ死ぬのか」 9月1日号 常真寺住職 皆川廣義 | |
私たちは、なんのために生まれ、生き、そして死んでゆくのでしょうか。誰もが死にたくないのになぜ自ら死んでゆくのでしょうか。 この私たちの一大事を、お釈迦さまの教えのなかに学んで、解決していきたいと思います。 お釈迦さまは、平和な時代、幸せな生活をしていましたが、隣人の老病死の苦悩より、自分の死を自覚し、死の一大事を解決すべく、国王への道を捨てて、二十九歳のとき、宗教者となりこの課題の解決に取り組まれました。五年の厳しい求道の後に、ブッダガヤの菩提樹下で坐禅を行じていたとき、自分は「不死なる三世十方の生命であると、大いなる悟りを得て、この課題を解決されました。 お釈迦さまは、自分の不死なる三世十方の生命のありようのなかに、自分がなんのために生まれ、生き、そして死んでゆくのかということの意義を発見せらえたのです。私たちは生物です。生物は、生命の乗り物でもあります。物は、いつかは壊れるもので、生物は、生命の永遠の乗り物になれません。したがって、生命は誕生したときにもった永遠に生きたいという願いを、生物を親より子へと乗り換え,転生して生きる道を作り出したのです。私たちは、過去の先祖の再生であり、私たちも子孫へ転生して、永遠に生きんとしている不死なる三世十方の生命なのであります。 全生物は、生命を永遠に伝承せんがために生まれてきた生命の乗り物です。心を持った動物である人間が、自分のための人生と考えているのは、心の中にある無明による妄想であります。このことを仏教者は、まず、正しく理解(悟る)せねばなりません。 私たちは自分のためにだけ生まれ、生き、そして死んでゆくのでありません。生命を永遠に相続するというもっと尊い使命のもとに生きているのです。全生物は、自分のなかに生きている生命を永遠に伝承せんがために生まれ、一生懸命に生きているのです。 さらに、不死なる三世十方の生命を学ぶと教えられるのですが、生物が死なないと全生物は、絶滅するのです。ユネスコの発表によりますと、現在人類は約数十億人いるのですが、この人たちが死なないと、七年位で地球上の全陸地は、ラッシュアワーの電車の中のように人間だけでいっぱいになり、農地も無くなり、食べ物が無くなり、絶滅せざるを得ないそうです。 ヒマラヤの山々も、農地の黒々とした土もみな、三十数億という生命の歴史が作り出した生物のなきがらでつくられています。私たちは、多くの生物のなきがらの上で生かされているのです。 私たちの身心を生かしてくれている原動力である心臓は、物ですから、いつか壊れます。心臓は、誕生以来休みなしで働きっぱなしに活動して、私たちを生かしてくれているのです。私たちはお釈迦さまより、そんな働きっぱなしの心臓を寿命がきたなら休ませることを、静かに感謝をこめて受け入れる道を、仏教としてさずかっているのです。 私たちは、凡夫として無明とそれがつくる煩悩に振り回されて生きています。すべて自分のためにあると思って、思い通りにならないとわめき、苦しんでいます。 お釈迦さまは、このような私たちを心配されて、三十五歳より八十歳で亡くなるまで四十五年間、身をけずるような伝道の旅をして、全人類に、凡夫より仏(正覚者)への道を、説き示してくれているのです。(駒澤大学名誉教授) |
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10月の法話 「大切な |
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仏教はお釈迦さまがつくられた宗教です。お釈迦さまは二十代後半になって身近な人の老、病、死の恐怖や苦悩より自分の死を悟り、死への迷いや苦悩を持たれ、この迷いや苦悩から解脱し安心と生きがいを求めて、国王への道を捨て、沙門という宗教者になられました。 沙門として樹下石上、三衣一鉢の厳しい生活を六年した後に、ブッダガヤの菩提樹下の坐禅行中、大いなる悟りを得て、人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して、安心と生きがいを得る道を発見せられました。 お釈迦さまは、成道後自分の取り組んだこの課題は、心をもった動物であるすべての人間にある一大事であると自覚し、すべての人々に伝道し、救わねばならないと決意されました。 お釈迦さまは、三十五歳で成道し、八十歳でクシナガラのサーラの林で亡くなられるまで四十五年間、多くの弟子たちとともに、すべての人々への伝道を展開されました。 お釈迦さまがつくりだした仏教は、仏教の教えを学び、理解し、信仰し、その苦悩の原因である無明を滅する菩提行と、同じく苦悩の原因たる煩悩を滅する涅槃行の実践により、だれでもが悟りと安心が得られる道でした。 お釈迦さまは、仏教を学び、信仰し、行じる場として、仏教者の信仰修行グループである 仏教では、人々がこの僧伽に入り、ここで生涯、学びと信仰と仏行の実践を通じて、誰でもが目指す悟りと安心を得られるのです。 いつの時代でも、僧伽の中心は、「寺僧伽」です。仏教者は、まずこの寺僧伽に参加し、仏教を学び、信仰し、仏行を実践して、悟りと安心をつくりだします。 その上、各自の家庭に「家僧伽」をつくり、仏壇の朝夕の祈り、聞法などを通じて、仏行を実践し、悟りと安心をつくりだします。また、仏教者は、家僧伽の活動を通して、家門と子孫繁栄をつくりだしてもいるのです。 お釈迦さまは、一人の無明と煩悩はヒマラヤ山を黄金にしても満足できないエネルギーであり、間違うと個人だけでなく人類や生物をも破滅させる恐ろしいものになると説き示しています。 現代の私たちの身近な問題では、人々の無明と煩悩は欲望を野放図にし、家族がばらばらになり、人類にとって大切なものであった家を崩壊させて、さまざまな苦悩をつくりだしています。また、家の崩壊は、家僧伽と寺僧伽の崩壊の原因にもなっています。 仏教は、寺僧伽と家僧伽の活動により人々の無明と煩悩をコントロールし、智慧(菩提)と安心(涅槃)を得る道で、これらの危機を乗り越える唯一の尊い教えであります。(駒澤大学名誉教授) |
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11月の法話 「凡夫より仏の世界へ」 11月1日号 常真寺住職 皆川廣義 | |
お釈迦さまは、釈迦国の皇太子として生まれ、幸せな生活をしていましたが、二十代後半になり、身近な人々の老病死の苦悩をみて、自分にもあのような一大事があることを悟られました。そして、自分の死を自覚することになり、一生懸命に生きている自分が、一方では、なぜ自ら死をつくっているのかという矛盾と死の恐怖に打ちのめされました。この自分の死がもたらす迷いと苦悩より解脱して人生の目的を悟り、安心を求めて、国王への道を捨てて沙門という修行者になり、解決を求められました。 お釈迦さまは、沙門として六年の厳しい求道の後に、ブッダガヤの菩提樹下の坐禅中に、自分は個としての存在だけでなく、真実は「不死なる三世十方の 悟られた人生の目的は、自分の人生を生きるだけでなく、両親よりいただいた生命を子孫に永遠に伝承するつとめがあると自覚しました。また、お釈迦さまは、この生命を永遠に伝承する営みは、人間だけでなく全生物に共通してある営みであると語られています。 生死の苦悩を解脱し安心を得る道は、仏教者の修行者グループ「僧伽」に入り、苦、集、道、滅の四諦説を学び正しく理解し、仏・法・僧伽に帰依し生涯信仰し、生死の苦悩の原因である無明を滅する菩提行と、煩悩を滅する涅槃行の二行を、僧伽のなかで生涯にわたり実践することにより、すべての人が悟りと安心を得られるという道です。 生死の苦悩の原因である無明と煩悩は、生きているすべての人にあり、一度に完全に滅尽することはできず、また、生涯持ち続け、心をもった人間には、生きるために必要なものでもあるというやっかいなものであります。 このため仏教者は、念々に生起する苦悩を原因とする無明と煩悩を、三帰依の信仰と菩提・涅槃行の実践により滅尽し、これを念々に悟りと安心に転じていくのです。 この三帰依の信仰と菩提・涅槃行の実践が身について行ぜられるようになると、自然に迷いと苦悩を乗り越える自信が生まれ、迷いと苦悩が起きてもたじろぐことなく、対応できるようになり、安心が決定していきます。 このような仏教者の悟りと安心は、僧伽のなかの信仰と実践により生まれるもので、僧伽の存在が重要になります。僧伽は、寺を中心とした寺僧伽と、そのメンバーの家僧伽により構成されています。特に、老いて病に倒れ非力になったとき、僧伽なくして安らかな死の受容はあり得ません。 また、家僧伽があるから、生命の伝承だけでなく、信心の伝承も子孫に行われます。そして、私たちも死して家僧伽の人々に葬儀していただき仏となり、子孫の生命と信心のなかに生き続け、お釈迦さまのように久遠の仏となるのです。 私たち仏教者は、子孫の生命と信心のなかに久遠に仏として生き、説法し続ける壮大な仏の世界を考えると、とほうもない法悦を感じます。(駒澤大学名誉教授) |
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12月の法話 「」 12月1日号 常真寺住職 皆川廣義 | |
お釈迦さまは、二十代後半になって、身近な人の老い、病、死の苦しみを見て、自分にもいつかあのような一大事が来ることを悟られました。自分の死を自覚したお釈迦さまは、死にたくない自分が死を作り出している不条理の自覚や死の恐怖を持つことになり、深い苦悩(カルーナ)に打ちのめされました。 お釈迦さまは、この苦悩より解脱して安心を得るため、国王になる道を捨てて、樹下石上、三衣一鉢の最下端の生活をして求道する沙門という宗教者になりました。六年にわたり坐禅と苦行を行じ、苦楽の中道の悟りの後に、ブッダガヤの菩提樹下の坐禅行のなかで十二月八日の朝に大いなる悟りを得て、出家求道の課題である人生の目的を悟り、生死の苦悩からの解脱の道を発見せられました。仏教では、このお釈迦さまの悟りと解脱を、仏道が成就したという意味で、成道と呼んでいます。 お釈迦さまの大いなる悟りは、自分が個人としての生命なる存在だけでなく、真実は、「不死なる三世十方の生命であると自覚したことより生まれました。そして、この不死なる三世十方の生命のありようのなかに人生の目的を悟り、生死の苦悩からの解脱の道を発見せられたのです。 成道されたお釈迦さまは、この仏道をすべての人々に伝道せねばならないと決意されます。それは、すべての人に死の迷いと苦悩があり、伝道して救わねばならないと考えられたからです。また、この迷いと苦悩の原因は、人々の心のなかにある無明と煩悩であり、この無明と煩悩は、一人のものでも、ヒマラヤの山を黄金としても満足しないようなとほうもないもので、危険なものであり、仏法によりコントロールせねば人類は破滅すると考えたからであります。 お釈迦さまは、成道後すべての人々に伝道するには、自分一人では不可能であり、共に伝道する若き伝道者(僧)を数千人養成することより始め、次に、この弟子たちと全インドの人々へ伝道を展開しました。さらに、外国の人々への伝道をし、最後には、自分が死した後にも人々は存在するわけで、この人達への伝道のため、仏教という宗教をつくり、八十歳で亡くなるまで伝道を実践され、仏教を完成させました。 お釈迦さまは、仏教者の死は、無明と煩悩の完全な滅尽であり、完全な涅槃であり、完全な成仏であると説き示されています。また、自分の死後、仏教サンガの人々により、自分の遺体を火葬にし、葬儀をして、完全な仏として寺に外なる仏としてまつり、供養し、信仰していただきたいと説き示しています。仏教サンガの人々はこの外なる仏さまをまつり、供養し、信仰することにより、お釈迦さまを信心のなかに内なる仏としていただきます。そして、この外なる仏と内なる仏への信仰は、相互に影響しあって、信心が深まり、仏と共に生きるという仏共生の信仰をつくりだし、この仏共生の信仰がさらに深まり、仏功徳共有という信仰になり、仏より悟りと安心が自然に授かる不思議が生まれ、仏教者の悟りと安心が成就すると説き示されています。 このようにして、お釈迦さまは、死後、仏教サンガの人々による葬儀で完全な仏となり、外なる仏と内なる仏の信仰により、仏教者の生命と信心のなかに生き続け、久遠の仏として人々に説法し、すべての人々を救ういとなみを、今もされているのです。 私たちも、また、お釈迦さまと同じように、死後仏教サンガの人々に葬儀をしていただき、久遠の仏となり、子孫へ説法し続けるのです。(駒澤大学名誉教授) |