Ryokuyin Zen Sangha

法話&Photo Gallery 【喫茶去】
喫茶去とは?


平成27年の法話

1月の法話「なぜ、生まれ、死する」

7月の法話「なぜ、生まれ死ぬのか」

2月の法話「釈尊涅槃会」

7月の法話-追加編「仏教の見方」

3月の法話「人の悩みと仏さまの悩み」

8月の法話「久遠実成の仏になる」

4月の法話「お釈迦さまの誕生と私」

9月の法話 仏教の彼岸

5月の法話「死後の成仏のために」

10月の法話「久遠の仏となる道」

6月の法話「悟りへの道・正見」

11月の法話「生まれ死ぬ人生の目的」

 

12月の法話「お釈迦さまの悟りと成道」

 

1月の法話】 「なぜ、生まれ、死する」                 11日号   常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義

  仏教者として、年のはじめに「自分はなんのために生まれ、生き、そして死んで行くのか」を、お釈迦さまの教えを聞きながら、学んで行きたいと思います。
 
 私たち人間は、普段、今を中心に生きているので、自分の過去の誕生や、未来の死についてあまり考えません。しかし、心をもった生物である人間として、今だけを中心にして生きていてよいのでしょうか。

 東日本大震災などで、多くの人々が亡くなる大事故にあったりすると、私たちは、どうして生まれ、生き、そして死していくのかを考えざるを得ません。しかし、解決できずに苦悩するだけでした。

 お釈迦さまは、二十代の後半までは、平和な時代、物質的にも精神的にもめぐまれた環境の中で生活し、幸せでした。しかし、隣人の老いや病や死の苦悩から、自分もいつかあのような一大事に直面することを悟り、迷いと苦悩をもたれました。

 そして、自分の過去(誕生)、現在(生)、未来(死)を考えるようになり、「自分はなぜ生まれ、生き、そして死するのか。生まれてきた目的はなんなのか、どうしたら生死苦を解脱して、安心を得ることができるか。」と考えられました。

 当時の多くの宗教者について学びましたが、解決は得られず、自ら宗教者になって人生の目的はなんなのか、どうしたら死の苦悩を解脱し、悟りと安心を得る道を求めて修行されました。

 お釈迦さまは、六年の求道の後に、ブッダガヤの菩提樹下で大いなる悟りを得て、この二つの課題を解決せられました。大いなる悟りは、自分の真実体は、「不死なる三世十方の生命である。」と自覚することにより生まれました。自分の生命は、個としての生命だけでなく、時間的にこの世に生命として生まれてから三十数億年も親より子へと生き続けた不死なる生命であり、また、自分より子へ再生しつづけ、未来へ永遠に生きんとしている三世の生命であります。また、空間的には、すべての生物をつくっている十方の生命であると悟られてのです。そして、このとほうもない三世十方の生命のありようのなかに人生の目的を学び、死苦からの解脱の道を発見せられたのです。

 私たちは、自分のために生まれてきたのではなく、生命を永遠に伝承するために生まれ、生き、死んでいくものです。生物は、生命の乗り物であり、物質によってつくられており、いつか壊れるもので、非連続です。生命は、非連続する前に、親より子へと再生して連続し、永遠を求め、不死なる三世十方の生命であったのです。

 心を持った生物である人間は、心のなかに自分を持っています。しかし、自分は主人公でなく、この三世十方生命が、まことの主人公なのです。ただ、人間は、他の生物と違い、三世十方の生命の法則のなかだけで、自分の自由がゆるされているだけです。

 また、お釈迦さまは、このような人間の真実のありようを知らない自分の心のなかにある無明と、その無明がつくりだす煩悩が、生死の苦悩の原因であり、この無明を滅する菩提行と煩悩を滅する涅槃行の実践が、生死の苦悩からの解脱の道になると発見されました。

 年頭にのぞみ心を新たにし、寺の諸活動のなかで、お釈迦さまの教えを学び、自分の人生の目的を悟り、生死苦からの解脱の道を実践して行きましょう。 
(駒澤大学名誉教授)

 【2月の法話】「釈尊涅槃会」                              21日号  常真寺 住職【緑蔭禅の集い 主幹】皆川 廣義

 釈迦さまは、二月十五日にクシナガラのサーラの林で亡くなられました。この日を、私たち仏教者は、「釈尊涅槃会」とし、報恩感謝の祈りをします。

 お釈迦さまは、二十代後半になり、自分はなんのために生まれ、生き、そして死にたくないのに自ら死ぬのか、生まれてきた目的は、なんなのかということと、死苦からの解脱を求めて宗教者となり、三十五歳のときブッダガヤの菩提樹下の坐禅行のなかで、この二つの課題を解決し、悟りと安心を得られました。

 それより、お釈迦さまは、八十歳でクシナガラで亡くなるまで、四十五年間沙門として樹下石上、三衣一鉢のきびしい行乞生活をしながら、私たちが生まれた人生の目的と、死苦からの解脱の道を得てもらいたいと伝道活動をされました。
 なぜ、お釈迦さまは、沙門としてきびしい生活をしながら、無報酬で人々に説法されたのでしょうか。それはすべての人々に、自分と同じ死のもたらす迷いがあり、死の苦悩があるから、すべての人々を自分が得た道により救いたいと、途方もない思いやりをもたれたからです。

 お釈迦さまの四十五年間の伝道は、人々への途方もない思いやり(利他行)と、自分の悟りと安心のため(自利行)の二つの目的をもった実践でありました。特に、きびしい無報酬の伝道は、煩悩を捨てて安心を得る自分の涅槃行でありました。

 お釈迦さまは、この四十五年の伝道により、すべての人々が、人生の目的を悟り、死苦を解脱して安心を得る道をつくりだしてくれています。私たちの悟りと安心の道は、もうつくられているのです。

 お釈迦さまは、二十九歳で求道を始められてから、八十歳で亡くなられるときまで、沙門の生活をし、すべての仏教者のなかで、最も煩悩をすてた最高の不染汚(ふぜんな)の修証をされ、教主にふさわしい最高の仏になりました。また、八十歳で自ら死し、自らの煩悩を完全に滅尽し、最高の無余涅槃を現成し、最高の仏となられました。また、お釈迦さまは、死後、残された人々への心配だけをもつ救済の仏になられました。

 お釈迦さまは、亡くなられた後には、葬儀をし、火葬にし、残った骨を仏舎利とし、これを寺に自分の象徴としてまつり、供養し、信仰するように指示されました。

 お釈迦さまの象徴としての仏舎利は、後に仏像や仏画などにもなり、仏教では、外なる仏として、大切に礼拝供養しています。

 お釈迦さまは、この外なる仏をまつり、供養し、信仰することにより、信心のなかに外なる仏を内在化し、内なる仏としていだき、外と内の仏が相互にはたらき合いながら信仰を深めて、仏とともに生きる信仰をつくりなさいと説き示されています。

 お釈迦さまは、この仏共生の信仰により仏教者の信心のなかに再生し、生きているときとおなじように祈りのなかで、人々への説法をし続け、久遠の仏となっているのです。

 釈尊涅槃会は、このような釈尊の涅槃をふまえて、仏教者がお釈迦様を久遠の仏とし、悟りと安心を得ていただく法会であります。 
(駒澤大学名誉教授)

 3月の法話】 「人の悩みと仏さまの悩み」                       31日号   常真寺 住職【緑蔭禅の集い 主幹】皆川 廣義

 お釈迦さまは、私たち人間は、悩みのない安らかな生活はできないと、説き示されています。それは、悩みの原因である無明と煩悩を完全に滅尽することができないし、また、人間は生きるためにどうしても無明と煩悩が必要でもあるからです。

 お釈迦さまは、このような人間の真実のありようを自覚した上で、この迷いと苦悩から悟りと安心への道を、菩提樹下の成道により発見されました。その道は、無明と煩悩により苦悩が生じたとき、仏さまを正しく知って信仰し、悩みの原因である無明を菩提行の実践により智慧(菩提)に変え、また、煩悩を涅槃行の実践により安心(涅槃)てに変えて、悟りと安心をつくりだす道です。

 仏教における生死の苦悩からの解脱の道は、苦悩をもった人が、その苦悩を求道のエネルギーに変えて聞法修行し、苦悩を仏法により智慧と安心へ転じて、成就するのです。

 自分の苦悩があって、はじめて仏教の悟りと安心が生まれるのです。自分の苦悩の自覚のない人は、いくら仏教を学び、行じても悟りと安心は生まれません。お釈迦さまは、このようにして人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して安心を得た人を、仏(正覚者)と呼びました。私たち仏教者は、みな仏にならねばならないのです。

 私たちの、生きているときの悟りと安心は、無明と煩悩により迷いと苦悩が生じたとき、仏道により、悟りと安心に転ぜられて生まれるもので、生きているときはこの繰り返しにより悟りと安心を成就するのです。

 お釈迦さまは、このような仏教者も死することにより、すべての煩悩を滅尽して完全な仏になり、安心を完成すると説き示されています。滅後の仏さまは、自分の煩悩は完全に捨てて苦悩は、一つもありません。私たち仏教者は、死後、法華経に説かれているような極楽浄土に生きています。

 お釈迦さまは、「ただ、死後の仏には、自分の悩みは一つもないが、残した人々の幸、不幸や仏への信仰の有無が、悩みである。」と説き示されているのです。

 私たち仏教者は、死後子孫の生命と信心のなかに仏として生きています。したがって、子孫が、仏教の信仰により繁栄してゆくことによって、自分も久遠の仏として子孫の生命と信心のなかに生き、子孫の祈りによって彼らと対話することもできるのです。ところが、子孫への生命の伝承と仏教の信仰がなくなると、これが成就できなくなります。これが仏さまの悩みなのです。

 私たち仏教者は、このため死後に仏として悩むことがないように、生きているときに手だてをせねばなりません。そのためには、家サンガで、常に子孫と共に聞法修行し、共に悟りと安心を得て、それによって繁栄していかねばなりません。私たちは、寺サンガの活動により、家サンガへの活動の展開が必要なのです。
(駒澤大学名誉教授)

4月の法話】 「お釈迦さまの誕生と私」       4月1日号
              常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義 

  お釈迦さまが、二千五百年前にインド・ネパールのルンビニーで四月八日に誕生されなかったら、私・皆川廣義は、いま生きていません。みなさんは「ええっ」と驚かれたかもしれませんが、本当にそうなのです。

 私は、昭和九年五月一日、常真寺本堂東側の部屋で、常真寺三十五代住職を父として生まれました。

 常真寺は曹洞宗の開祖、道元禅師が、中国より禅仏教を日本に伝えてくれたことにより、建立されました。
 
 道元禅師が、日本に招来した禅仏教は、中国禅仏教の開祖でインド人の達磨さんが、中国に招来して生まれました。そして、達磨さんの仏教は、お釈迦さまがつくられた仏教より生まれました。

 お釈迦さまの仏教は、お釈迦さまが二千五百年前にルンビニーで誕生され、二十九才のとき、自分の死の迷いと苦悩より解脱せんと出家求道され、六年の修行の後にブッダガヤの菩提樹下で大いなる悟りを得て解決され、その後八十才で亡くなるまで四十五年間も人々のために伝道されたことによって生まれました。

 以上のことにより、私がこの世に生まれたのは、常真寺という寺があったからで、さかのぼって考えるとそれは、お釈迦さまが二千五百年前ルンビニーに生まれ、そして仏教という宗教をつくってくれたからです。 

 私と同じように、多くの仏教徒が、同じ因縁により、生まれ、生きていることを、知っていただくことが大切です。

 お釈迦さまが、六年の求道により取り組んだ死の迷いと苦悩は、すべての人々にあります。すべての人々は、お釈迦さまが解決された仏教を学び、理解し、信じ、実践して、自分の迷いと死苦からの解脱の道を得て、悟りと安心を得なければなりません。

 お釈迦さまの仏教は、難しい教え、難しい行ではありません。お釈迦さまは、誰にもある死苦の迷いと苦悩を救うため、誰もが理解し、実践できる悟りと安心への道を説き示されています。
 
 常真寺サンガの多くの人々は、一泊参禅会、土曜参禅会、日曜法話などの学びを通して、得道しています。

 仏教の学び方は、まず、教主であるお釈迦さまの御生涯をを学び、その人柄を正しく理解します。次に、根本教理の@苦、集、道、滅の四諦説、A仏、法、サンガの三帰依説、B持戒、精進、禅定、智慧、忍辱、布施の六度説を学び、正しく理解し、仏と法と、サンガを信じ、六度の菩提と涅槃行を実践します。この根本教理の理解は、七日間(一日一時間三十分)くらいの学習で、誰もが、学得できます。これからは、年に一回、このお釈迦さまの根本教理の学習会を開きたいと考えています。是非、ご参加下さい。そして、すべての檀信徒の皆様が、人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱できる得道者になっていただきたいと祈念しています。

 四月八日の『花まつり』は、私たち仏教徒がお釈迦さまの誕生をお祝いするお祭りです。ただ、誕生をお祝いするだけでなく、お釈迦さまとの深い因縁を自覚して、お釈迦さまが誕生していただいたことにより自分があり、悟りと安心がいただけることを自覚しましょう。

 是非、四月八日には、常真寺の本堂に設けられた花御堂の誕生仏におまいりし、誕生のお祝いと仏恩への感謝をしてください。 
(駒澤大学名誉教授)

 5月の法話】 「死後の成仏のために」       5月1日号
             常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義

  お釈迦さまは、死の矛盾をのりこえて人生の目的を悟り、死苦をのりこえて安心を得る成仏の道を、生きているときに仏となる道と死後に仏となる道の二つを説き示されています。

 生きているときの成仏の道は、まず苦集道滅の四諦説を学び、仏教を正しく理解し、自分の死の一大事を自覚し、次に、三帰依説と六度説を学び、正しく理解し、仏教の僧伽に入り、仏と法と僧伽への信仰と持戒・精進・禅定・仏智慧・忍辱・布施の六度を生涯、実践して、悟りと安心を得ることであります。お釈迦さまは、すべての人が、僧伽のなかで三帰依の信仰と六度の実践をすることにより、成仏し、人生の目的を悟り、死苦を解脱して安心を得ることができることを、実証しています。

 死後の成仏の道は、生きているときに成仏している仏教者が亡くなって、遺族の人々が、お釈迦さまの教にもとづいた
葬儀をし、お釈迦さまより仏名を記したお血脈をいただき、お釈迦さまと同じ完全な仏になることです。

 亡くなって完全な仏になった仏さまは、寺と家の仏壇に仏名を記した位牌としてまつられ、火葬にしたお骨は、仏さま
の(仏舎利)として墓に仏名を記してまつられます。つまり、仏教者は亡くなられると葬儀をしてお釈迦さまと同じ完全な仏となり、寺と仏壇とお墓の三カ所に仏さまとしてまつられるのです。仏教者は亡くなって天国に行くのではなく、この三カ所にまつられているのです。この三カ所が仏さまのいる浄土です。

 残された子孫の人々は、この三カ所にまつられた仏さまを、外なる仏さまとして、ねんごろに供養し、信仰いたします。外なる仏さまを信仰することは、亡くなった人が子孫の人々の生命と信心のなかに新帰元して内在化し、内なる仏さまになって、再生されたことであります。そしてこの子孫の信心のなかに再生した内なる仏さまは、次に三カ所にまつられた外なる仏さまへのまつり、供養信仰をつくりだします。つまり、そとなる仏さまへの信仰が、内なる仏さまへの信仰をつくり、内なる仏さまへの信仰が、次に外なる仏さまへの信仰をつくって、外と内とが相互に影響しあって仏さまへの信仰を深めていきます。

 そして、子孫の人々は、自分と仏さまが共に生きているという、仏共生の信仰をもつことになります。仏共生の信仰は、子孫の人々の朝夕の祈りを通して仏さまとの対話などで、仏さまが子孫をよく知ることになり、また子孫も共生している仏さまをよく知ることになり、両者は、相互によき相談者となります。この祈りを通しての両者の対話のなかに、子孫の人々は、仏さまより死別の悲しみをのりこえる道や、生きる智慧や勇気をさずかることになります。

 この仏共生の信仰により、仏さまよりいただく生きる智慧や勇気を、仏功徳共有の信仰といいます。仏共生の信仰により、仏功徳共有の信仰が生まれて、仏教者のまことの悟りと安心が現成できるのです。

 仏功徳共有の信仰の中に、私たち仏教者も子孫の信心なかで、久遠に彼らへ説法し続けて久遠の仏となることができるのです。このような深き仏信仰によって、自分の安心と子孫の繁栄が生まれるのです。

 この願いを成就するためには、自分の信心だけでなく、子孫への伝道と、それによる「我らと衆生と皆共に仏道を成ずる」家僧伽の活動がなければなりません。(駒沢大学名誉教授)

 6月の法話】 「悟りへの道・正見」         6月1日号
               常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義 

 お釈迦さまは、人生の目的を悟り、生死の苦悩より解脱して安心を得るには、まず、正見・正しいものの見方をすることがなければならないと説き示されています。そのために菩提(悟りの智慧)を得る道として、八正道の第一に正見の教えをあげているのです。
 
 ただ、現代は、仏教者にとって大切なこの正しいものの見方が修得できない状態が多くなってきています。

 私の寺は、山のなかの百二十数軒の集落にあり、ほとんどが檀家です。寺の朝夕の勤行で梵鐘をつき、読経することが、ほとんどの檀家に音で伝わります。また、本堂や境内の清掃は貧しい寺なので、寺のものがします。これらの仕事をさぼると、梵鐘の音が消え、本堂と境内も荒れてきて、檀家の人々にはすぐに解ってしまいます。ごまかしや嘘がつけません。寺のものと檀家の人々もお互いに、寺のよいことも悪いことも、正しく見ることができる状態にあります。

 私には、東京の裕福な寺の友人がいます。彼の寺は、第二次大戦の爆撃でまわりの檀家が焼かれ、近くには檀家はありません。梵鐘をつくことや勤行の有無など、ほとんどの檀家の人々は知りません。また、彼の寺は、所有地の借地料で年に一億円の収入があり、多くの人々を雇って法要や清掃などを立派にやっています。しかし、私の寺のように、檀家の人々が寺の悪しきことも良きことも、正しく見ることができない状態にあります。

 話が変わりますが、現代の私たちは、工業化社会に生きています。しかし、私たち人類は、長い間農業を中心とした社会生活をしてきております。

 その農業社会では、家族は朝から晩まで、共同生活をし、また、生涯、同じ家、同じ場所で生きてきました。家族は共同生活をしているので、言葉で語らなくても、生活を通してお互いに理解しあえるものを持っていました。この文化が人類を厳しい時代に助け合いながら生き抜かせて、今日をつくってくれたのです。

 ところが、現代の工業化社会は、核家族を生み、両親は、朝から外に働きに行き、子どもは鍵っ子となり、農業社会からみると、共に生活をする場と時間がなくなり、家族がお互いに正しく理解できない状態となっています。ここから家族間の争いなどが、生まれます。

 以上、お話した私の寺と友人の寺の違い、それに農業社会と工業社会に人々のおかれている生活の大きな違いが、現代において、正しいものの見方をできにくくし、仏教を学び、行じにくくしているのです。

 このような時代の変化を正しく知って、お釈迦さまの教えを学び、行じてゆかねばなりません。

 そのために仏教者は、家庭で子どもたちが成人になるまで、共に生活する時間を、今の生活のレベルを落としても、もっと多くしていかねばならないと思います。そして、言葉だけの対話だけでなく、農業社会がもっていた、生活を通して通じあう無言の対話ができるようにしなければなりません。

 この仏教者の改革は、一つの家だけでできることでなく、国家や国家や全人類レベルでの改革ができないと実現しません。しかし、これをしないと人間の煩悩が、人類や多くの生物を地球上より、消滅させてしまいます。    (駒沢大学名誉教授)

 7月の法話】 「なぜ、生まれ死ぬのか」        7月1日号
                常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義 

 お釈迦さまは、二十代の後半になって、身近な人々の死の苦悩を見て、自分にもあのような一大事があることを悟られました。そして、自分の死を考える中で「自分はなんのために生まれ、生き、そして死にたくないのに死ぬのか。」という死への迷いを持たれました。

 お釈迦さまは、それまでは、単純に自分のために生まれ、生きていると思っていました。しかし、一生懸命に生きんとしている自分が、一方では死をつくっている不条理を自覚されたのです。そこで、自分はなんのために生まれ、生き、死んでいくのかという人生の目的を、真剣に考えました。

 お釈迦さまは、国のすぐれた宗教者についてこの人生の目的を学びました。しかし、満足するような教えを説くような人がいませんでした。

 お釈迦さまは、自分でこの課題を解決するしかないと自覚し、国王への道を捨てて、沙門という修行者になって、この課題を解決せんとされました。沙門という修行者は、樹下石上、三衣一鉢の最下端のきびしい生き方をする宗教者です。

 お釈迦さまは、まず、マガダ国の山の都ラージャガハで、アーラーラ・カーラーマという禅定者について学び、その教えを修得し、師のような深い智慧を得ましたが、なぜ、生まれ死ぬのかという課題は解決できませんでした。次に、インドの最高の禅定者であるウドラカ・ラーマプッタについて学び、その教えを修得し、師のような深い智慧をえましたが、課題は解決出来ませんでした。ただ、お釈迦さまは、人の心のなかにある無明というにごりと、それがつくりだす煩悩が苦悩の原因であることを悟ることができました。

 そこで、お釈迦さまは、無明を滅するために坐禅と、煩悩を滅するための苦行を、ウルヴェーラの苦行道場に行き、行じられました。ガンダーラ仏の釈尊苦行像のように肉がなくなり骨と皮だけになって坐禅を行じましたが、解決は得られませんでした。

 そして、修行に絶望しそうな状態のなかで坐禅をしていたある朝、子どもの頃よりよく聞いていた琴の比喩を歌った農夫の歌を聞いていて、第二の悟りである苦楽の中道を悟られました。それは、苦と楽の極端の道では解決が得られない、中道を歩めということでした。また、この中道の悟りは、人は生きているときには、無明と煩悩を完全に滅することはできないし、また、滅しては生きていけないということと、全ての人は自ら死ぬことにより、自らの無明と煩悩を完全に滅しつくすと悟られました。死は完全な涅槃で、安心であると悟られたのです。

 お釈迦さまは、苦行道場を出て、ネーランジャラ河で沐浴されて身を清め、ウルヴェーラの娘スジャータの乳粥の供養を受けながら中道としての修行を実践されます。中道を行じることにより、身体も修行前のように回復され、身体中に生命力がみなぎりました。自分が主人公だと思っていたが、この生命こそが自分の本当の主人公であったと悟られました。

 自分の主人公である生命は、生まれてより死なないで自分まで生き、また未来に生きていることを悟られたのです。また、今、地球上に生きているすべての生物も、自分と同じように不死なる生命なのだと悟られました。

 お釈迦さまは、十二月八日にブッダガヤの菩提樹下の坐禅行のなかで、この「不死なる三世十方の生命」のありようのなかに、人生の目的と生死の苦悩からの解脱の道を発見せられ、成道されました。

 お釈迦さまは、この不死なる三世十方の生命のありようのなかに、人間だけでなくすべての生物が、生命を永遠に伝承せんがために生まれ、生き、死していることを悟られたのです。

 生命は、生物という乗物にのっています。乗物は、物質でできているので、こわれてしまいます。生物は、永遠の乗物にはなれません。そこで生命は、乗物を乗り換えて永遠を求めて生きてきたのです。つまり、人間の場合は親より子へと乗物を乗り換えて永遠を求めて生きているのです。非連続の宿命を親より子へと転生し再生することによって、連続させているのです。生命は、生物を非連続の連続をして永遠を求めて生きているのです。

 したがって、親にとって子は自分の再生であります。孫は、自分の再々生であると、仏教者は悟らねばなりません。このことが自覚されると、親子観が変わり、人生の風景が変化し、楽しくなります。

 また、生物は、物質ですから存在するために空間が必要となります。もし、いま地球上にいる数十億人の人間が死ななかったら、たった七年半で地球上の陸地は、人間だけで一杯になってしまいます。したがって、生きてゆけず絶滅します。このことわりより解るように、死は子孫に生きる場をゆずる大いなる思いやりであり利他行であったのです。この教えをふまえて、仏教者の死は、安らぎだけでなく、大いなる思いやりの完成となるのです。

 このような生命のとほうもない営みが、自分の生と死であることを、仏教者として自覚いたしましょう。
(駒沢大学名誉教授)

 7月の法話(追加)】 「仏教の見方」        7月1日号
              常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】    
皆川廣義

 <仏教の人生観>
 私たち仏教者は、お釈迦さまが、菩提樹下でさとられた「不死なる三世十方の生命」の教にもとづき、次のような人生観をもって生きていきます。
 仏教者の人生の目的は、ご先祖仏いただいた生命と心を、ゆずり葉のような三世代そろったよき家庭で、いただいた生命と心を正しく子孫へ伝承することにより、子孫の繁栄と、自分と人々が安らぎと幸せをつくることと自覚します。
 この人生の目的を達成するため、お釈迦さまの教えを学び、信じ、行じる家庭サンガをつくり、家庭が物心両面の豊かな繁栄ができるようにします。
 また、この人生の目的を達成し、自分と人々の安らぎと幸せな人生をつくるため、人と国法を遵守し、人倫道徳を守り、人々と共に共栄していきます。
<仏教の結婚・家庭観>
 私たち仏教者は、お釈迦さまの教えにもとづき、ご先祖仏よりいただいた生命と心を正しく子孫へ伝承し、子孫の繁栄を、自分と人々の安らぎと幸せをつくることを人生の目的とします。
 この人生の目的を達成するため、お互いにふさわしい人と結婚し、よき家庭をつくり、それを家庭サンガとし、お釈迦さまの教えにもとづき豊かな身体と心をもった子孫を育てていきます。
<仏教者の労働(仕事)観>
 私たち仏教者は、お釈迦さまの教えにもとづき、ご先祖仏からいただいた生命と心を正しく子孫へ伝承し、子孫の繁栄と、自分と人々の安らぎと幸せをつくることを人生の目的といたします。
 この人生の目的を達成するため、自分の能力にかなった職業につき、労働をいたします。
(駒沢大学名誉教授)
 

  8月の法話】 「久遠実成の仏になる」        81日号
               常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義 

 お釈迦さまは、二十代の後半になって、身近な人々の老病死の苦悩をみて、自分もいつかあのような一大事に直面することを悟りました。自分の死の持っている不条理や恐怖から、自分はなんのために生まれ、生き、そして死にたくないのに自ら死していくのか。自分の人生の目的はなんなのか。どうしたら、この死の恐怖を乗り越えて安心が得られるのかという課題を持たれました。

 お釈迦さまは、この課題を解決するため国王になる道を捨てて沙門という求道者になりました。幸いにもきびしい六年間の修行ののちにブッダガヤの菩提樹下の坐禅行のなかで、自分の真実は、「不死なる三世十方の生命」であることを悟り、この生命のありようのなかに、人生の目的と生死の苦悩からの解脱を発見し、この課題を解決しました。

 お釈迦さまは、菩提樹下で成道された直後、自分が取り組んだ課題は全ての人々にあり、苦悩の原因である無明と煩悩は人類を滅ぼす危険なものもあるので、全ての人々に人生の目的と生死の苦悩からの解脱の道を伝道せねばならないと決意されました。お釈迦さまは、全てに人々にどうしたら伝道できるのか、しばらく菩提樹下で坐禅を行じながら塾慮されました。

 お釈迦さまは、まず、一人では全ての人々に伝道することは不可能なので、伝道者を養成することより始められ、数千人のすぐれた伝道者を育てました。この伝道者たちと雨季には、教えや伝道法について学び、乾季には蜘蛛の子を散らすようにして一人で村から村へ伝道され、全インドの人々に教えを伝えました。

 次に、お釈迦さまは、当時インドに商売できている外国人に伝道し、国に帰ったら仏法を人々に伝道していただくようにしました。

 さらに、お釈迦さまは、自分の死んだ後にも人々がいるのでこの人々への伝道の手だてを弟子たちとつくりだしました。そのため仏教の四諦、三帰依、六度などの教理をつくり、仏教者の生活規範を定め、伝道の場である寺をつくり、さまざまな伝道法をつくりました。

 お釈迦さまは、クシナガラのサーラの林で八十歳で亡くなるまで四十五年間の伝道で、全ての人々が、悟りと安心を得る道をつくり、仏教を完成されました。また、お釈迦さまは、この地球上に人々がいるかぎり、自分は彼らの教主になって、救っていかねばならないと発願され、そのために厳しい修行と伝道を亡くなるまで実践されました。お釈迦さまが、クシナガラで亡くなられた後、仏教者たちは、その教えにもとづいて、葬儀をして完全な仏となっていただき、火葬にして残された骨を、仏舎利とし、お釈迦さまの象徴として寺にまつり、供養し、信仰しました。

 仏教者は、この寺にまつられた外なるお釈迦さまを供養し、信仰することを通して、自分の生命と信心のなかにお釈迦さまを内在化し、内なる仏として生涯いただき、供養し、信仰していきます。

 この外なる仏の信仰は、内なる仏への信仰をつくり、相互に影響して信心が深まり、仏共生の信仰をつくり、仏功徳共有の信仰となって、仏教者の悟りと安心をつくりだしました。

 こにょうにしてお釈迦さまは、仏教者のいるかぎり、その生命と信心のなかに久遠に実成し、説法を続けているのです。また、お釈迦さまだけでなく、全ての仏教者も、久遠実成の仏となって子孫へ説法し続けねばならないのです。(駒沢大学名誉教授)

 9月の法話】 「久遠の仏となる道」         91日号
               常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義 

私たち仏教者は、自分の死の不条理と死苦からの解脱を求めて、お釈迦さまの教えを学び、正しく理解し、信仰し、菩提と涅槃の仏行を行じて、人生の目的を悟り、生死の苦悩から解脱して、安心と生きがいをつくりだしているのです。

 また、私たち仏教者は、自分の悟りと安心だけでなく、お釈迦さまのように、すべての人々に悟りと安心をつくりだすため、伝道せねばなりません。

 心を持った動物であるすべての人間に、死の不条理と苦悩があるかぎり、すべての人々にお釈迦さまの教えを伝えて救わねばならないのです。

 すべての人々とは、時間的に過去、現在、未来のすべての人々、空間的には、地球上に生きているすべての人々のことです。

 お釈迦さまは、すべての人々を救わんがため、自分は教主にならねばならないと自覚し、きびしい修行と伝道をクシナガラで八十歳で亡くなられるまで実践され、仏教を完成されたのです。仏教者たちは、その教えにもとづきお釈迦さまが亡くなられると葬儀をして、煩悩を完全に滅盡された完全な仏さまになっていただきました。そして火葬にして残った骨をお釈迦さまとして寺にまつり、供養し、信仰することにしました。

 この寺にまつられた外なるお釈迦さまを、仏教者たちは、供養し、信仰することを通して、自分の信心のなかに内なる仏さまとしてお釈迦さまを内在化し、生涯信心のなかにいだき、信仰しました。つまり、外なる仏への信仰により、内なる仏さまをつくり、内なる仏さまへの信仰を通して、外なる仏さまへの信仰を深くして、外と内とが相互に助けあいながら、信仰を深めて、生涯、仏と共に生きる仏共生の信仰をつくりだしました。

 仏教者は、この仏共生の信仰により自分の信心のなかに再生されたお釈迦さまと、祈りを通して生前と同じように対話をし、お釈迦さまより教えを聞く道をつくりだしたのです。

 そして、お釈迦さまは、願いどおり、寺があって仏教者のいるかぎり、その信心のなかに再生し続け、久遠に説法する仏となって、すべての人々を救わんとする願いを成就しているのです。

 寺があって、そこで人々がお釈迦さまを学び、知り、信仰し、その仏行を実践するかぎり、お釈迦さまは、久遠実成の仏となり、私たちに悟りと安心を与え、救ってくれているのです。

 仏教では、教主であるお釈迦さまだけが、久遠実成の仏となるだけでなく、すべての仏教者が、死後葬儀をして先祖仏となり、久遠実成の仏となり、子孫へ説法し続け、悟りと安心を与えてゆかねばならないのです。

 寺があり、そこにお釈迦さまと祖師仏と先祖仏がまつられ、そこで人々が仏を学び、知り、信仰し、仏行の実践することが、仏教者が久遠の仏となる道で、これによって、お釈迦さまやすべての仏教者の願いである、すべての人々を救わんとする願いが成就することにもなるのです。

 仏教は、すべての仏教者が、久遠実成の仏となり、子孫へ説法し続けることにより子孫の悟りと安心をつくりだし、それによって子孫の物心両面の繁栄をつくりだし、自分も子孫の生命と信心のなかに生き続けることになるのです。このことを成就するために寺があり、そこに多くの仏さまがまつられているので私たちの悟りと安心をいただくことができるのです。(駒沢大学名誉教授)

 10月の法話「仏教の彼岸」        101日号
         常真寺住職 「緑蔭禅の集い主幹」  皆川廣義

先月の初め頃、下野新聞論説委員の篠田裕次さんが、同紙『雷鳴抄』執筆のため常真寺に来られ、仏教の行事であるお彼岸は、どのような教えもとづく行事なのかを正しく知りたいとのことであった。

 仏教の行事である彼岸会(ひがんえ)は、日本で生まれた行事で、一年のなかで昼夜の長さほば同じで、よい時節の春秋の一週間、仏教徒が仏さまの教えを学び、信仰し、行じて、人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して、安心と生きがいをつくりだすための行事であります。

 仏教の彼岸という言葉は、私たちの無明と煩悩におおわれて迷い苦しんでいる凡夫としての「此岸(しがん)」の世界より、お釈迦さまの教えを学び、信仰し、行じて悟りと安心を得た「彼岸」の世界という意味です。仏教は、人々の無明と煩悩におおわれて迷い苦しんでいる此岸より、悟りと安心の彼岸に行く道の教えなのです。

 お釈迦さまは、この苦しみの此岸より安らぎの彼岸の道を、苦と集と道と滅の四諦説を学び仏教を正しく理解し、仏と法(教え)と僧伽(仏教者の信仰修行者集団)に帰依し信仰し、持戒と精進と智慧と忍辱と布施の六度の実践により悟りと安心を得て、誰もが彼岸に至ると説き示されています。

 寺では、このお釈迦さまの根本教理である四諦説と三帰依説と六度説を、日曜法話、一泊参禅会、土曜参禅会、仏祖会などの行事で学んでいただいています。

 それらの会に出席できない方には、皆様の都合の良いときに、寺で個人授業をさせていただいています。身体の不自由な方には、自宅に出向いてお話しさせていただきます。

 お釈迦さまは、此岸に生きているすべての人々は無明と煩悩があり、迷い苦しんでいる、このすべての人々を此岸より彼岸に導いて、悟りと安心を得ていただかねばならないと菩提樹下で成道したときに決意されました。

 それより八十歳で亡くなるときまで四十五年間、沙門として樹下石上、三衣一鉢の最下端のきびしい生活をしながら、私たちのためこの此岸より彼岸への道を説き示してくれたのです。

 お釈迦さまは、四十五年間の伝道を通して、誰でもがこの此岸より彼岸に行くことのできる道をもうおつくりいただいています。したがって、みなさんが仏教を学び、信仰し、行じていただいて、彼岸にいたり、自分の安心と生きがいを得ていただくだけです。(駒沢大学名誉教授)
 

 下野新聞『雷鳴抄』篠田裕次(2015.9.23
23日は彼岸の中日。彼岸のお供えものと言えば「おはぎ」。秋はハギの花にちなんでおはぎ、春はボタンで「ぼたもち」と呼ぶのだと思っていた別の区分では粒あんがおはぎ、こしあんがぼたもちなのだとか。ほかにも大きいのがぼたもち、小さいのがおはぎとさまざまだが、今は年間を通しておはぎと称する和菓子屋がほとんどだだいぶ前のことだが、仙台市郊外の秋保温泉にあるスーパーでおはぎを買い求めたことがある。甘さ控えめですこぶる美味。評判を呼び小さな地方のスーパーにもかかわらず、驚異の売り上げを誇る。地方創生のヒントをそこに見た話を彼岸に戻せば、昼夜の長さがほぼ同じ春秋の彼岸になぜ墓参りをするのだろう。答えを求めて駒沢大名誉教授で鹿沼市の山あいにある常真寺の住職、皆川廣義さん(81)を訪ねた真実を知らないことを意味する無明と煩悩に覆われたわれわれの世界が此岸、対して仏のいる世界が彼岸。ごくごく要約すれば、この此岸から彼岸に行くには悟りと安らぎを得ることが必要で、季節のよい春秋にその修行をすることがそもそもの由来である先祖仏への報恩と感謝が墓参りであり、これも修行の一環だという。墓参りのついでに寺の住職に仏の教えを請うてみるのもいい。おはぎの味が一層、味わい深くなるはずだ。

1月の法話「生まれ・死ぬ人生の目的」    111日号

           常真寺住職 「緑蔭禅の集い主幹」  皆川廣義 

 お釈迦さまは、幸せであった二十代後半に身近な人の老病死の苦悩から、自分にもいつかあのような老病死の一大事がくることを悟られました。そして、自分の死を深く考えることになります。この死の省察のなかで、自分が一生懸命に老病死を避けて生きていると同時に一方で老病死をつくり、死して行く事実に気付きました。そして、自分はなんのために生まれ、生き、死にたくないのに死するのか。自分の人生の目的はなんなのかという課題をもたれました。

 お釈迦さまは、多くの宗教者について学び、この課題の解決を求めましたが、解決できませんでした。そこで、国王への道を捨てて、沙門という宗教者になり六年の求道の後に、ブッダガヤの菩提樹下の大いなる悟りによって、自分は個としての生命体だけでなく、同時に不死なる三世十方の生命であると自覚し、出家求道の課題である自分の人生の目的を自覚しました。自分の生命は、必ず生死するが、同時に、時間的に親につらなり、過去の先祖に連なり、生命として生まれてより、不死で自分にいたっており、また、子へつらなり、未来の子孫につらなって生きんとしています。つまり、過去より自分までは不死であり、自分より未来へ不死を求めており、過去・現在・未来に生きんとしている三世の生命であります。また、自分の生命は、空間的に親につらなり、親族につらなり、全人類につらなり、全生物につらなっており、自分と全生物は生命同根であります。自分の生命は、全生物と同じものであり、すべての生物と生命同根の十方の生命でもあります。

 お釈迦さまは、この自分の不死なる三世十方の生命のありようのなかに、課題であった自分の人生の目的を悟られたのであります。

 成道前のお釈迦さまは、自分の個としての生命だけ考えていましたが、この不死なる三世十方のの生命としての自分を悟り、この自分の生命が地球上に生まれてより、途方もない多くの生命断絶の危機を見事に乗り越えて自分まで生き続け、また未来の子孫に生きんとしているものであることを自覚しました。自分の真実は、自分のために生まれたものでなく、生命を永遠に伝承せんがため、生命の乗物として生まれたことを自覚したのです。人間ばかりでなく、全生物は同じ生命の乗物であり、生命を永遠に伝承せんと大いなる願いをもったものであります。人間はこの大願のため、生まれ、成長し、結婚し、家庭をもうけ、そこで子どもを授かり、子どもへ生命と心の伝承をすることが、本来の人生の目的であったのです。

 お釈迦さまは、私たち仏教者の人生の目的は、生命と心を子孫へと永遠に伝承していくこと、生命の法則の枠内での自分の人生を生きることだ、と説き示しています。

 この生命と心を子孫へ伝承していくいとなみにより、全先祖が私に生きているように私も子孫がお釈迦さまの教えによりこのような人生の目的を実践することによって、子孫の生命と信心のなかに永遠に生き続けることになるのです。

 現代人は、自我を暴走させ、自分のことしか考えず、他者を考えない人が多くなっています。このことは、多くの生物や人間社会に危機的な状態をつくっています。

 私たち仏教者は、お釈迦さまが、生命と心の伝承と生命の法則の枠内での自分のための人生であると説かれた人生の目的を、人々に伝えていかねばなりません。(駒澤大学名誉教授)
 

 2月の法話「お釈迦さまの悟りと成道」    121日号

           常真寺住職 「緑蔭禅の集い主幹」  皆川廣義

  お釈迦さまは、二十九歳のとき、隣人の老病死の苦悩より自分の死を自覚し、自分が一生懸命に死を避けて生きているのに、一方では自ら死をつくっている矛盾と死の恐怖からの解脱を求めて国王への道を捨てて沙門という厳しい修行をする宗教者になりました。

 お釈迦さまは、六年の求道の後、十二月八日の朝、ブッダガヤの菩提樹下の坐禅行中に、自分が「不死なる三世十方の生命」であると大いなる悟りを得ました。

 それまで、自分の生涯だけを考えて、自分が主人公だと考えていたお釈迦さまは、自分が人間であり、生物であり、生物は、生命の乗物であり、生命が自分の真の当体であったと悟られたのであります。そして、生命も、生物も、人間も、自分も、多くの因縁によって生起し、生滅しているものであって縁起性であり、無自性であり、空なる存在であることを悟られました。

 また、生物は、物質によってつくられており、物質はいつかは滅してしまうので、生命にとって生物は、時間的に永遠の乗物になれません。そこで生命は、誕生以来生物という乗物を乗り換えて今日まで永遠を目指して生きてきたのです。つまり人間の場合、生まれ死ぬという生物の危機を、死する前に親より子へと伝承させて非連続(死)の危機を解脱し、生命は誕生以来、自分まで連続して相続され、過去より現在へ、そして未来へと、過去・現在・未来の三世に生きんとしているのです。

 また、この三世の生命は、空間的には、自分をつくるだけでなく、はらからをつくり、全人類をつくり、全生物をつくっており、全生物が生名同根で、十方なる生命でもあります。

 お釈迦さまは、このような自分の不死なる三世十方の生命の真実のありようを知らない無明と自分だけのために生きんとする煩悩が自分の心にあることを悟り、これが苦悩の原因であると見極めて、無明を正覚(菩提)に転じ、煩悩を安心(涅槃)に転じる道を発見されたのです。

 お釈迦さまは、人間はの迷いと苦悩の原因である無明と煩悩を、生きているときにはすべて滅することはできないし、また、厄介なことにこの二つは生きるために必要なものでもあると悟りました。

 お釈迦さまは、菩提樹下の『悟り』により自分の真実が、不死なる三世十方の生命であったと自覚し、その不死なる三世十方の生命のありようのなかに、課題であった死の矛盾を明らめ、死の恐怖から解脱する道を発見し、その道を行じて『成道』されたのです。

 お釈迦さまの仏教は、キリスト教のように神様の教えではなく、自分をつくっている「不死なる三世十方の生命」の教えなのです。

 また、私たちは、この教えを教主としてのお釈迦さまより四諦・三帰依・六度説として教えていただき、これを信仰し、三帰依と六度の実践をすることによって、悟りと安心をいただいているのです。

 私たち仏教者の悟りと成道は、仏と法とサンガに帰依し、信仰し、あわせて六度の菩提行(持戒・精進・禅定・智慧)の実践により無明を滅し悟りを得、涅槃行(忍辱・布施)の実践により煩悩を滅し安心を得て、それが成道となるのです。

 私たち仏教者は、自分の本当の当体であるこの不死なる三世十方の生命が三十数億年生きてきた能力、経験智を信仰し、この能力と経験智により、悟りと安心をつくりだすのです。(駒澤大学名誉教授)

         


当ホームページはリンクフリーです。
バナーは下のものをコピーしてお使いください。
リンク先は「http://ryokuinzentudoi.web.fc2.com/」にお願いします。


下記はレンタルサーバーの広告です。当サイトで掲示しているものではありません。ご了承ください。

inserted by FC2 system