Ryokuyin Zen Sangha

法話&Photo Gallery 【喫茶去】
喫茶去とは?

平成26年の法話
【1月の法話】「すばらしき釈尊仏教」 【7月の法話】「死して仏となる教え」
【2月の法話】「家庭サンガ」
【8月の法話】「お盆の仏教」
【3月の法話】「真実のありよう--不死なるもの--」 【9月の法話】「お彼岸の仏教」
【4月の法話】「成仏の教え--ほとけさまになる 【10月の法話】「世法と仏法」
【5月の法話】「なぜ生まれたのか」 【11月の法話】「菩提樹下の悟りと縁起」
【6月の法話】「仏教者の死後」 【12月の法話】「浄土 生きているときと死んだ後

1月の法話】 「すばらしき釈尊仏教」         11日号
         

                  
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義
  
 お釈迦さまは,平和な時代に王家に生まれ,物心両面にめぐまれた環境のなかで成長し,強健な身体と深い智慧,それに暖かい心を持った成人になられ,幸せな生活をしていました。

 ところが,二十代後半になり,隣人の老病死の苦悩を見て,自分にもいつかあのような一大事がおとずれることを悟られました。そして,自分の死を考えるなかで,死にたくないと一生懸命に生きている自分が,一方で死をつくっている矛盾を自覚し,自分はなんのために生まれ何のために死ぬのかという課題をもたれ,また,どうしたらこの死の恐怖をのりこえて安心と生きがいを得られるかいう課題をもちました。

 この二つの課題を,解決すべく多くの宗教者について学びましたが結局解決は得られず,国王になる道を捨てて,自ら樹下石上,三衣一鉢の行乞生活をしながら求道する沙門という宗教者になり解決を求められました。

 お釈迦さまは,沙門として六年の求道の後に,ブッダガヤの菩提樹下の大いなる悟りにより,この二つの課題を解決されました。

 お釈迦さまの大いなる悟りは,「自分は死んでいない。今生きている全生物も死んでいない。みな永遠を願って生きている。」という生命の真実のありようを自覚したことより始まりました。自分の生命は,時間的には,この地球上に生まれてより自分まで生き続け,さらに子孫へ生き続けんとする,三世の生命であり,また,空間的には,地球上に生存したすべての生物とこれから生まれるすべての生物は生命同根であるという十方の生命を自覚されたのです。

 お釈迦さまは,この自分の三世十方の生命のありようのなかに,課題であった人生の目的と生死の苦悩からの解脱の道を発見されたのです。

 お釈迦さまの悟られた,人生の目的は,自分のいただいた不死の生命を永遠に伝承することと,生命の法則の枠内で自分の人生を他の生物にできるだけ迷惑をかけないで生きることです。

 また,生死の苦悩からの解脱の道は,まず,四諦説を学んで仏教を正しく理解し,仏教者の修行グループであるサンガ(僧伽)に入り,仏と法とサンガに帰依し,生涯サンガのなかで,六波羅蜜の行を実践するなかに,だれでも悟りと安心と生きがいをつくりだすことができるという教えです。

 お釈迦さまは,,成道後,自分の取り組んだ課題は,すべての人にあり,すべての人々の死の矛盾と苦悩を救わねばならないと決意し,八十歳でクシナガラのサーラの林で亡くなるまで,四十五年間多くの弟子たちと力を合わせて伝道を行い,すべての人々を救う仏教をつくりだしました。

 お釈迦さまは,すべての人々を永遠に救っていくために,亡くなった後,火葬にし,残った骨を仏舎利として塔をたててそこにまつり,外なる仏さまとして人々に信仰していただくことにしました。そして,人々がこの外なるお釈迦さまを信仰することにより,信心のなかにお釈迦さまを内在化してもらい,内なる仏さまとして信仰していただくことにより,人々に永遠に説法を続けていきたいと願われました。

 お釈迦さまは,亡くなった後,この外なる仏と内なる仏の信仰により,その後の全仏教徒の信心のなかに再生して説法を続け,永遠にすべての人々を救うという途方もない願いを成就されているのです。(駒澤大学名誉教授)
                                      
 2月の法話】 「家庭サンガ」                       21
         

                  
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義
 お釈迦さまは,譲り葉のような祖父母の葉,父母の葉,子どもの葉の三代が,そろった家庭をつくりなさいと,教えています。

 お正月のしめ縄に使用する譲り葉は,三世代がそろって葉をつけています。五月頃に新しい曾孫の葉が芽吹くころになると,祖父母の葉が落ちて,新しい三世代になります。

 私たち仏教者の家庭は,この譲り葉のような三世代そろった家で,生命と文化を親より子へと伝承して,子孫が繁栄し,豊かな生きがいのある生活をしてきました。

 私たち人類は,生まれて以来,この家庭を中心にして厳しい時代を生き抜き,今日の文明を築きあげてきたのです。

 ところが,現代の豊かな物質文明は,家庭を不必要とし,壊しています。昔のように貧しい時代は家族が助け合わなくては生きていけませんでした。皆が,家を中心に譲り合い,助け合って生きてきました。

 今は、豊かな物質生活をするため,大人たちは,家を出て働き,子どもは鍵っ子になってしまい,朝夕の一家団欒の食事すらできなくなってしまいました。多くの人々が,お金に引きずりまわされた生活をしています。

 なんのために生まれ,働き,そして死んでいくのか,人生の目的すらわからなくなってしまいました。

 ここで,お釈迦さまの教えにより,私たちの人生の目的と,家庭の存在意義を再確認して,壊れた家庭を再建して,昔のような楽しい,生きがいを感じる家庭生活をつくりださねばなりません。

 家庭が壊れていては,豊かな心をもった子供を育てることはできません。豊かな人格をもった子どもたちによって,私たちの老後の安らかな生活をささえていただけるのです。現状では,私たちの安らかな老後は,不可能になりつつあります。一人で孤独死し,葬儀も,その後の供養もしていただけなくなってしまいます。

 人間は,一人だけでは,老後を安らかに生き,死を迎えることはできません。どうしても,他者からのサポートを必要とします。このサポートの場が家庭であります。家庭ができないことを外よりサポートするのが,福祉行政です。現状は,このことが逆になっているように思います。親の老後の面倒を行政がすることと思って,子どもは親の面倒を見なくてもよいと思っている人がいるように思います。

 税金を安くしてその分,行政のする福祉を家庭でするようにまわすべきであると思います。

 また,子どもの教育費なども,親がアルバイトしないですむように,税金でまかなえるようにすべきでしょう。

 私たちもよけいな物質文明をけずって,シンプルにし,質素な生活のなかでも,もっと生きがいやよろこびを感じられる生活をつくりださねばなりません。

 朝夕のおつとめのとき,本堂におまつりしているお釈迦さまや祖師仏や皆さんの先祖仏が,家庭の崩壊を心配されて,以上のようなことを語っておられます。

 各自の家庭サンガをしっかりとつくり,豊かな未来づくりをして,仏さまに心配をかけないようにしましょう。(駒澤大学名誉教授)
3月の法話】 「真実のありよう--不死なるもの--   31日号
         

                  
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義 
  お釈迦さまは,王家に生まれ,幸せな生活をしていましたが,二十代後半になって,身近な人々の老い,病い,死の苦しみをみて,自分にもあのような一大事があることを自覚されました。

 自分は,老いたくないのに老いをつくり,病気になりたくないのに病いをつくり,死にたくないのに死をつくっているという事実を悟ったのです。

 そこで,どうして,人生の最後に老病死の苦悩を持つのか,自分はなんのために生まれ,生き,死んでゆくのか,自分が生まれてきた目的,つまり,自分の人生の目的は,なんのためなのかと,様々な課題をもたれました。

 また,どうしたら,この老病死の迷いと苦悩を解脱して安心と生きがいを得ることができるだろうかと,多くの宗教者について,学びましたが悟りと安心は得られませんでした。

 そこで,お釈迦さまは,国王への道を捨ててみずから宗教者となって,この問題の解決のために求道をはじめました。

 お釈迦さまは,六年の厳しい求道の後,ブッダガヤの菩提樹下で坐禅をしていたとき,大いなる悟りを得て,人生の目的を悟り,生死の苦悩からの解脱の道を発見されました。

 お釈迦さまは,そのとき,「われ不死なるものなり。」とさけばれました。

 自分が不死であることは,自分は今まで死んでいなかったし,また,これからも人間がこの地球上に生存あるかぎり不死であるということです。

 自分の個人としての生命は,生まれればいつか死していきます。しかし,自分の生命は,親よりいただいたもので,親につらなっており,さかのぼると生命としてこの地球上に生まれてから自分まで生き続けてきた,死なない「不死なるもの」であったのです。

 この不死なる生命のことを,お釈迦さまは,「三世十方の
生命(いのち)」と説き示されています。

 時間的には,自分の生命は,三十数億年前の過去に生まれ,自分まで伝承され,現在の自分より未来の子孫へ伝承されて生きんとしているものであり,過去,現在,未来へ生きる三世十方の生命であるというのです。

 空間的には,全人類,全生物は生命同根であり,自分をつくっている生命は全人類をつくっている生命と同じものであり,十方の生命でもあるというのです。

 自分の生命の中に,このような途方もない三世十方の生命があり,それは不死ならんとする大願をもったもので,自分までは,不死であり,子孫へは不死ならんと努力しているのです。

 お釈迦様の菩提樹下の大いなる悟りは,自分の個としての生命のなかに,このような途方もない三世十方の生命があることを自覚され,この自分の個としての生命と三世十方の生命が,自分の真実のありようであると自覚されたのです。

 そして,お釈迦さまは,この三世十方の生命のありようのなかに,課題であった自分の人生の目的と生死の苦悩からの解脱の道を悟られ,発見せられたのであります。 (駒澤大学名誉教授)
 4月の法話】 「成仏の教え--ほとけさまになる--               41日号
         

                           
 常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川廣義
 仏さまになる,成仏するということは,お釈迦さまの生涯とその根本教理(四諦,三帰依,六度)を,仏教のサンガのなかで学び,正しく理解し,仏と法とサンガに帰依し,六度の行を実践して,死の迷いと苦悩を解脱して,悟りと安心を得ることです。

 お釈迦さまは,サンガのなかで,四諦,三帰依,六度の学びと信仰と実践により,誰もが成仏して悟りと安心を得られると説き示され,四十五年間の伝道を通して実証しています。

 私たちの成仏は,むずかしいと思われていますが,お釈迦さまは,生きているときにだれもが成仏できる道を説き示されています。

 また,お釈迦さまは,自分が亡くなった後にも人々がいるわけで,この人たちをどう救っていくかを,弟子たちとその手だてを相談され,四十五年間の伝道のなかで,私たちを救う道をつくってくれています。

 その手だてとして,自分の死後,自分が人々より教主として信仰されることにより,仏教者の生命と信仰のなかに,仏として再生して説示していく道を作りだしました。

 お釈迦さまの菩提樹下の大いなる悟りは,自分は,三世十方の生命で,この地球上に生まれてより,親より子へと死なないで伝承されてきた「不死」なる存在だとの自覚です。つまり今生きている全生物が不死であるという,途方もない生命の実相の自覚です。

 したがって,お釈迦さまは,二千五百年前に亡くなられましたが,お釈迦さまの生命が,私たち全仏教者の生命のなかに生きているということでもあります。私たちは,お釈迦さまの生命の再生でもあるということです。

 その上,お釈迦さまは,私たち人間が心をもった生物であるので,信心のなかに教主(仏)として再生し,説法してゆく道をつくりだしました。

 お釈迦さまは,自分が教主として仏教者の信仰に再生して説法しつづけるため,その生涯をきびしく立派に生きられました。また,人々が,いつ,どこで教えを学んでも,仏道を理解し,信仰し,実践することにより,悟りと安心を得る道を,教理(四諦,三帰依,六度)として説き示されました。

 さらに,お釈迦さまは,自分が亡くなったら通夜の儀式をして,人々に人間仏として最後の告別をしてもらい,人々の信心のなかに自分の全生涯を正しく記憶してもらい,その上,葬儀をして完全な仏となる儀式をし,遺体を火葬にし,残された仏舎利を,自分の教主としての象徴とし,塔をたててそこにまつり,外なる仏として供養し,信仰していただき,それによって,仏教者の信心のなかに内なる教主として再生し,説法しつづける道をつくってゆかれたのです。

 このお釈迦さまと同じように全仏教者は,お釈迦さまの教えにより,三帰依と六度の実践により,生きているときにみな成仏し,亡くなった後も葬儀を通してさらに完全な仏として成仏し,外なる仏さまとして寺と仏壇と墓にまつられ,供養と信仰により,残された子孫の生命と信心のなかに再生して,説法しつづけるのです。

 お釈迦さまは,このように生きているときの成仏と死後の成仏の教えにより,永遠に仏教者の信心のなかに再生し,人々に説法し,慈悲の救済をつづけられているのです。そして,同じように私たち仏教者も仏となり,人々の信心のなかに再生し,説法し,救済をつづけるのです。(駒澤大学名誉教授)
 5月の法話】 「なぜ生まれたのか」          51日号
         
                  
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義
 みなさん、自分はなんのために生まれ、そして、死にたくないのになぜ死んでゆくのでしょうか。私たちの人生の目的はなんなのでしょうか。

 お釈迦さまは、この問題の解決のため、二十九才のときに沙門(しゃもん)という樹下石上のきびしい生活をしながら求道する宗教者になって、解決を求められました。

 幸いにも、お釈迦さまは、六年の求道の後に、ブッダガヤの菩提樹下で坐禅中に、大いなる悟りを得て、この課題を解決されました。

 お釈迦さまの成道は、「自分が不死なる生命である。」と自覚したことより生まれました。まず、自分の生命は、自分個人の生命だけでなく、この地球上に生命として生まれてより、自分まで親より子へと伝承され、死なないで生きてきた生命であると自覚されたのです。時間的には、この地球上に生まれた過去より現在の自分まで、自分より未来の子孫へと永遠を求めている過去・現在・未来への三世の生命であるということです。また、空間的には、自分の生命は、親につらなり、親族につらなり、全人類につらなり、全生物につらなった十方(すべて)の生物が生命同根なる生物であるということを自覚されたのです。つまり、自分は、個としての生命・生物であるとともに、三世十方の生命という途方もない存在であるということです。

 この三世十方の生命は、この地球上に生まれてより、地球が火のかたまりになったり、氷のかたまりなるような途方もない危機をいくたびも生き抜き、三十数億年も生きている途方もない存在でもあります。

 お釈迦さまは、さらに、自分の三世十方の生命のありようのなかに、すべての生物が、生命の乗物であって、生命を永遠に伝承せんがために、生まれてきているという真実を悟られました。

 生命の乗物である生物は、物質的ねものによって出来ているので、いつかこわれるもので永遠の乗物となれません。しがって生命は、乗物を乗り換えて生きているのです。また、物質によってつくられている生物は、生きる空間が必要です。もし、生物が死なないと限られた土地である地球上は、生物でいっぱいとなり、生物は生きてゆけなくなります。このような道理により生命は、生物を乗り換えながら、非連続の連続の生命伝承をして生きているのです。

 私たちは、生命を永遠に伝承する使命をもって生まれ、ゆずり葉のように三世代そろった家で親より子へと生命を伝承し、自分の曾孫が生まれるころに、私たちは自ら死んで生きる場を子孫に譲って、生命を永遠に伝承させているのです。しかし、自分は死んでも、自分の生命は、子どもに再生し、孫に再々生して、永遠にいきているのです。

 このような、自分の生命の実相を知らずに、生きているのが凡夫としての私たちです。凡夫は自分のために生まれてきたと思っているので、自分の死を自覚し、迷い苦悩しているのです。本当は、生命を永遠に伝承するために生まれ、死して行くのです。

 この生命の実相を、お釈迦さまの教えにより、悟った人が、正覚者(仏)なのです。私たちは、以上のようなお釈迦さまの教えを学んで、正覚者、仏にならねばなりません。

 仏教者は、人生の目的が、生命を永遠に伝承することと、自分のための人生の二つがあることを、正しく自覚しなければなりません。(駒澤大学名誉教授)
 6月の法話】 「仏教者の死後」          61日号
         

                  
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義
  自分の死後はどうなるのか、ほとんどの人々は考えたり、話し合っていないように思います。

 お釈迦さまの教えを学びながら、私たち仏教者の死後はどうなるのか、明らかにしていきたいと思います。

 私たちは、死にますと、身体も(色)も心(受想行識)も無化され、無くなってしまいます。

 しかし、お釈迦さまが菩提樹下で悟られてように、私たちは「不死」なる生命であり、三世十方の生命なる存在でもあります。身体は、子どもに再生し、心は教育を通して子どもに再生して、永遠を目指し生きているのです。私たち人間は、さかのぼって考えればわかるように生命同根なる存在ですから、子どものいない人でも、その身体と心は、他の子孫の身体と心に再生し続けているのです。

 つまり、私たち個人は死によって無化され身体と心もなくなりますが、生命と心は子孫に生き続けているのです。私たちは、生まれれば必ず死す「非連続の生命」を有しているとともに、親より子へと伝承されて生き続けている「連続の生命」を持っているのです。

 お釈迦さまは、私たちのこの非連続の連続なる生命が、自分の真実(真如)のありようであると悟られたのです。そして、この非連続しながら連続して生きている「三世十方の生命」のありようのなかに、出家求道の課題であった人生の目的と生死の苦悩からの解脱の道を発見されました。

 お釈迦さまは、なぜ生まれてきたのかという人生の目的は、親よりいただいた生命と心を永遠に伝承することと、生命の法則の枠内で自分の人生を豊かに幸せに生きることの二つの目的があると説き示されています。

 また、生死の苦悩からの解脱の道は、生涯仏教の修行集団(サンガ)に入り、四諦説を学び、正しく理解し、仏法僧の三宝を信仰し、六度の実践により、だれでもが悟りと安心を得ることができると説き示されています。

 お釈迦さまは、このような教えをふまえて私たち人間が死して無化された後に、教えにもとづき葬儀をして仏として再生し、残された人々により外なる仏として菩提寺と仏壇と墓の三カ所にまつられ、供養し、信仰せられるように説き示しています。次に、残された人には、この外なる仏さまを信仰することにより、自分の生命と信心のなかに内なる仏さまとして内在化し、信仰していただきます。そして、残された人々は、この外なる仏への信仰が内なる仏への信仰をつくり、外なる仏と内なる仏の信仰が相互に影響しあいながら信仰を深め、仏さまと生涯共に生きる信心をつくりだすのです。

 お釈迦さまの教えにより、私たち仏教者は、死後一人一人の残された子孫の生命と信心のなかに再生し続けてゆくのです。

 私たちは、自分の死により心身を無化しますが、お釈迦さまのみごとなる教えにより、子孫の生命と信心のなかに仏として再生し続けて行く道をいただいているのです。

 私たち仏教者は、お釈迦さまの教えにより死後葬儀をして仏さまとなり、菩提寺と仏壇と墓にまつられ、子孫に信仰されることにより、その子孫の生命と信心のなかに再生し、永遠の仏となり、数えきれない人々に仏法を語り続けるのです。  
(駒澤大学名誉教授)
 7月の法話】 「死して仏となる教え」          71日号
         

                  
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義
  お釈迦さまの教えは、自分の死がもたらす迷いや苦悩を解脱して、人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して、安心と生きがいをつくりだす道であります。

 死がもたらす迷いや苦悩は、すべての成人した人々にあります。ない人は、今それを自覚していないだけで、まもなくいやでも自覚させられます。

 お釈迦さまは、病気や戦争などで、自分の死が目の前にぶらさがってから自覚し、対処しても解決は得られないことを知って、すべての成人した人々にこの一大事を自覚させ、すべての人々に安心と生きがいを得ていただきたいと、ブッダガヤの菩提樹下で自分のこの課題を解決された後に決意し、沙門として再下端の厳しい生活をしながら、三十五才のときより八十才でクシナガラのサーラの林で亡くなるまで四十五年間、多くの弟子たちと伝道をされたのです。

 お釈迦さまは、四十五年間の伝道により、すべての人々が、四諦を学び、三帰依の信仰と六度の実践をすることにより、死の迷いと苦悩を乗り越えて安心と生きがいを得る道を説き、人々に安心と生きがいを実証されています。

 私たちは、仏教のサンガに参加し、生涯、四諦を学び、仏・法・サンガの三帰依の信仰と六度の実践をすることにより、安心と生きがいが得られる道が用意されているのです。

 私たちの常真寺は、仏教者のサンガであり、今、皆さんが諸々の活動に参加して安心と生きがいを得る道を学び、信じ、実践して、悟りと安心をつくりだしています。寺では、ひとりでも多くの人々が、このサンガ活動へ参加していただくよう祈念し、寺の活動を一つ一つ充実させて、お待ちしています。

 お釈迦さまの教えは、生きている自分の死の迷いや苦悩を解脱して安心と生きがいを得る道ですが、自分の死んだ後の悩みについては、死して仏となることにより、安心が得られる道も説き示しています。

 私たち人間は、生物の中でただ一つ心をもった生物であります。生物は、生命の乗り物であります。生命は生物という乗り物と一体になって生きているのです。ものは必ずこわれます。生物は、生命の永遠になれません。そこで生命は、生物という乗り物を親より子へと乗りかえながら、生きてきたのです。

 今、地球上に生きている全生物は、死なないで二十数億年も生きてきた、不死なる存在であります。お釈迦さまは、菩提樹下の成道のとき、この生命の実相を悟られ、迷いと苦悩を乗り越え、安心と生きがいを得る道を発見せられたのです。

 お釈迦さまは、この生命の実相をふまえて、自分の死後も、自分の生命は、子孫に、子孫のいない人でも他の生きている生物に生き続けていることを正智せよと説き示し、さらに、私たち人間は、心をもった生物であるから、子孫の心の中に、仏として再生して、その子孫の信心のなかに再生し続けていく道を説き示されたのです。

 仏教の葬儀は、人間として死んだ者を、このお釈迦さまの教えにより子孫の信心と生命のなかに仏として再生していただく儀礼なのです。このことにより、私たち仏教者は、死して仏となり、子孫の生命と信心のなかに、永遠にいきてゆくことができるのです。
(駒澤大学名誉教授)

8月の法話】 「お盆の仏教」                      81日号
         
                     
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義

 お盆の行事は、お釈迦さまの弟子目連(もくれん)さんのお母さまのウランバナ(さかさに吊るされる苦しみ)という苦悩を、お釈迦さまが救われた故事より生まれました。

 目連さんの母は、可愛いわが子が、沙門としてお釈迦さまのところで樹下石上、三衣一鉢のきびしい修行生活をして身体を壊さないかと色々と心配され、とうとう夜も眠れない心の病気になってしまいました。

 目連さんは、そのことを人づてに聞き、心配し、どうしたら母のこの病気を治すことができるのか、お釈迦さまに相談されました。

 お釈迦さまは、修行者たちの夏の修行(安居(あんご))の修了する七月十五日に、お母さんより、全修行者に食事の供養をしていただくと、病気はよくなり、元気になると教えられました。

 目連さんの母は、この食事の供養を通して、お釈迦さまのもとでこんなにたくさんの修行者が一生懸命に修行していることを知り、自分は我が子だけを心配する母の小さな愛だけしか持っていなかったことに気づき、反省されて、自然に心の病気もなくなり、元気になられました。

 目連さんの母は、自分の子だけを心配する小さな愛によって病気になり、お釈迦さまにより、大きな愛の実践である全修行者への食事の供養を教えられ、それを実践して苦悩を乗り越え、悟りと安心を得られたのでした。

 お盆の行事は、この目連さんの小さな愛より大きな愛の実践より生まれたのです。

 お盆の行事は、自分の先祖仏だけの小さな愛より、供養もしていただけなくなったたくさんの無縁仏を、自分の先祖仏とともに供養する大きな愛の実践なのです。

 私たち仏教者は、自分の先祖仏を菩提寺と仏壇と墓の三カ所にまつり、常に供養しています。

 年に一度、自分の先祖仏以外の無縁の仏さまなどを、お迎えし、一緒に供養する行事が、お盆なのです。自分の先祖はもうお迎えしおまつりしているのです。迎え火も、送り火も、自分の先祖仏を迎え送るのではなく、他の無縁仏をお迎えお送りする行事なのです。

 お盆は、小さな愛より、大きな愛を実践する仏教者の大切な涅槃行の実践なのです。それにより、小さな愛がつくる悩みが捨てられ、大きな愛による悟りと安心をさずかるのです。

 お盆は、先祖仏のおまつりですから、これからも家族みんなで、先祖仏をまつる菩提寺、仏壇、墓におまいりし、仏教者の報恩と他者への思いやりの実践をしていきましょう。

 お寺では、お盆のときだけではなく無縁の先祖仏と他の亡くなった生物の霊までも「三界万霊」として常におまつりし、供養する大きな愛の実践をしています。

 お寺に、おまいりしたときには、教主のお釈迦さま、仏教を伝えてきた祖師仏、みなさんの先祖仏、無縁仏、三界万霊がまつられていることを忘れず、おまいりしていただくようお願いします。

 私たち仏教者は、自分だけという小さな愛によって生まれる苦悩を、お釈迦さまの教えにより、他の人々や生物までを含めた大いなる愛により、乗り越えて、悟りと安心をさずかり、幸せな人生を歩んでいるのです。
(駒澤大学名誉教授)
9月の法話】 「お彼岸の仏教」          91日号
         

                  
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義 
 仏教の彼岸という言葉は、お釈迦様が「生死の苦悩の世界(此岸)から、悟りと安らぎの世界(彼岸)をめざして修行しなさい。」と説き示されたことから生まれました。
 つまり、私たち仏教者が、迷いと苦悩を乗り越えて求める悟りと安心の境地が、彼岸であります。

 お釈迦様は、この迷いと苦悩の此岸より、悟りと安心の彼岸に到着できる道を、四諦説を学び、三帰依の信仰と、六波羅蜜(六度)の実践によって得られると、説き示されています。
 日本の仏教では、この彼岸を目指す修行を、寒くもなく暑くもなく修行に適した春と秋にそれぞれ七日間彼岸会として行っています。
 彼岸会は、私たち仏教者が、お寺を中心にして、お釈迦さまの教えを学び、その教えを正しく理解し、仏と法と僧伽に帰依し、信仰し、六度の実践をして、悟りと安心を求める修行期間なのです。
 悟りと安心の彼岸への道は、まず、教主である釈尊の生涯を学んで、その人柄を正しく理解し、教主として信仰することよりはじまります。そして、常にお釈迦さまの生涯を学び続け、仏として理解を深め、信仰を深めていきます。
 次に、お釈迦さまの説き示された根本教理の四諦説、三帰依説、六度説を学び、正しく理解し、その教え(法)を信仰することです。そして、この教えを、常に学び続け、正しい理解を深め、信仰を深めていきます。
1.苦集道滅の四諦説
 四諦説は、お釈迦さまが、菩提樹下の成道により発見した生死の苦悩からの解脱の道を、苦集道滅の四つのキーワードで、説明した教えです。
 苦諦は、すべての人に、迷いと死の苦悩があると説き示しています。
 集諦は、その迷いと死の苦悩の原因は、自分の真実を見失っている無明と、その無明がつくりだす煩悩であると説き示しています。
 道諦は、死苦の原因である無明を滅するために悟り(菩提)を得る道を、説き示しています。お釈迦さまは三十七の菩提行を説かれていますが、私たちは、六度のなかの持戒・精進・禅定・智慧を学び、実践し、悟りを得ています。
 滅諦は、死苦の原因である煩悩を滅する安心(涅槃)の道を、説き示しています。私たちは六度のなかの忍辱と布施を学び、実践して安心をつくりだしています。
 これが、四諦の教えで、仏教の根本の教えであり、お釈迦さまは、最初の説法のときより、四十五年間の伝道で、常に説き示されています。
2.仏法僧伽の三帰依説
 三帰依説は、仏さまとその教えとこの仏と法を学び、信仰する修行者集団の僧伽(サンガ)に帰依し、信仰することにより悟りと安心を得る道を、説き示しています。
 仏は、教主のお釈迦さまと、その教えを私たちに伝えてくれた祖師仏と、私たちの先祖仏になります。
 法は、お釈迦さま、祖師仏、先祖仏の説き示された、悟りと安心を得るための教えであり、主にお釈迦さまが説かれた経典(聖典)が中心となります。
 僧伽は、寺の修行集団(サンガ)と家の修行集団からなり、この二つのサンガは相互に助け合いながら、メンバーの求道を深めて、悟りと安心をつくりだしています。
 この仏と法と僧伽に帰依し、信仰することは、まず、外なる仏と法と僧伽をつくりだすことより始めます。
 仏さまの生涯をよく学び、理解して、信仰の対象として仏像もしくは仏画を求めて、おまつりし、この外なる仏さまを、香華燈燭を供え、礼拝信仰することです。
 次に、その仏さまの教え、つまり仏法を学び、正しく理解して、信仰します。学びの場は、寺の法話、経典の講話、本の読書などによって行います。そして、自分に最適な聖典を、外なる法として持ち、信仰することです。寺では、増谷文雄編『仏教の根本聖典』(大蔵出版)を外なる法としておすすめしています。
 僧伽は、まず、寺サンガのメンバーになり相互に助け合いながら聞法修行し、この外なる僧伽に帰依し、信仰できるようにすることです。そして、次に家サンガをつくります。
 外なる仏と法と僧伽ができて、これに帰依し、信仰するということは、外なる仏と法と僧伽を自分の信心のなかに内在化するということです。それは、外なる仏と法と僧伽が、自分の信心のなかに内在化し、自分と共に生きているということです。そして、この仏と法と僧伽が、自分の信心のなかに共生しているという自覚を明確にしっかりともつことが大切です。つまり、外なる仏と法と僧伽の信仰により、内なる仏と法と僧伽への信仰をつくり,また内なる仏と法と僧伽への信仰が,外なる仏と法と僧伽への信仰を深めて、外なる信仰と内なる信仰が相互に助け合いながら、信仰を深めて行くように実践し、自覚し信仰することです。
 この外と内の仏と法と僧伽を自覚し信仰することにより、仏共生の信仰が、仏功徳共有の信仰となり、この仏功徳共有の信仰により、私たちの悟りと安心が現成することになるのです。
3.持戒・精進・禅定・智慧・忍辱・布施の六度説
 六度説は、仏教の悟りと安心を得る実践行で、持戒・精進・禅定・智慧・忍辱・布施の六つのキーワードよりなります。私たちは、この六つを持戒・精進・禅定・智慧の無明を滅する菩提行(悟り)と忍辱・布施の煩悩を滅する涅槃行(安心)の二つに分けて学んでいます。
 菩提行は、生活を正し(持戒)、聞法精進し(精進)、深く坐禅省察し(禅定)、禅定の智をサンガの中でメンバーに語り、メンバーに理解された普遍智とする(智慧)ことです。これを繰り返すことにより、仏教者の悟りが深まってゆくのです。
 涅槃行は、堪え忍ぶことにより煩悩を捨てること(忍辱)、自分の大切なものを他者に施してそれによって自分の煩悩を捨てること(布施)により安心を現成します。忍辱行は一人で行ぜられるものであり、布施行は、人々のなかで行ぜられるものであります。布施は、自分のための行(自利)でありながら、他者のためになる行(利他)でもあるのです。仏教の布施は、自利と利他が一行になかに円満しています。
 私たち仏教者は、このような四諦、三帰依、六度の仏教の根本教理にもとづいて、自分の修行と信仰をしなければなりません。
 お彼岸に仏さまのまつられている寺と仏壇とお墓におまいりするのも、この根本教理にもとづいて行ぜられているのです。みなさんの忙しい生活の中で、自分のことをあとにして仏さまのことを先にして家族みんなで寺参りすることは、先祖仏への報恩の行であり、また、六度の忍辱行の実践でもあり、私たちは、それにより自然に悟りと安心をさずかっているのです。
 彼岸会は、仏教者がこのような仏教の悟りと安心の道を集中して、学び、行じ、実践して自分の悟りと安心をつくる大切な修行期間なのです。
 (駒澤大学名誉教授) 
 10月の法話】 「世法と仏法」          101日号

                       常真寺 住職【緑蔭禅の集い主幹】 皆川 廣義
  仏教者は、世法と仏法と二つをもって、生きてゆかねばなりません。
 
 世法は、世間の生活をしてゆくための法(きまり)で、国の法律、道徳などにより決められたものです。この世法を、人々がよく守り、実践することにより、平和で、豊かで、幸せな生活が人々に生まれるのです。
 
 お釈迦さまも、二十代の後半になるまでは、平和で物心両面にめぐまれた環境のなかで育ち、強健な身体と深い智慧ををもって、世法のなかで幸せに生活されていました。

 ところが、二十九歳のとき、隣人の老病死の苦悩を見て、自分にもいつかあのような死の一大事が訪れることを悟られました。そして、死にたくないと一生懸命に生きている自分自身が、一方で老いをつくり、病いをつくり、死をつくっていることの矛盾を自覚されました。どうして、生きる努力と死する努力を自分はしているのだろう。なんのために生まれ、生き、そして死して行くのだろうか。自分の生まれてきた目的はなんなのだろうかと人生の目的を深く苦悩されました。また、どうしたら自分の死を安らかに受け入れるようになれるのか、死の恐怖を乗り越えて、安心をどうしたら得られるのかと、死苦からの解脱の道を求められることになりました。

 お釈迦さまは、自分の死が、どんなに平和であっても、お金を持っていても、強健な身体と心をもっていても、防げないものであることを、自覚されたのです。つまり、この自分の死が、なげかけている死の矛盾、死苦からの解脱が、世法で解決できないことを、自覚したのです。当時の人類は、世法でこの問題をまだ解決できていなかったのです。

 そこで、お釈迦さまは、自らこの問題を、国王になる道を捨てて、沙門という宗教者になり、解決することになりました。幸いにも、六年の樹下石上、三衣一鉢のきびしい求道をした後に、ブッダガヤの菩提樹下の坐禅行のなかで解決されました。

 それは、人間の自我のレベルの解決でなく、その下にある生命の実相の中に解決がありました。

 お釈迦さまは、このことを成道のとき、「われ不死なるものなり。」という言葉で、述べています。自分の真実は、自我でなく、それを四六時中ささえている生命なのだ。生命は、この世に生まれてから、時間的には、過去・現在・未来へ生きんとしている三世の生命であり、空間的にはすべての生物を生んでいる十方の生命であることを悟られたのです。この三世十方の生命のなかに、課題であった人生の目的と生死の苦悩より解脱して安心を得る道を、発見されたのです。

 お釈迦さまは、この三世十方の生命のことばのなかに、人生の目的と死苦の解脱の道を、仏法として学びとられたのです。

 つまり、世法で解決できなかった自分の死の矛盾と死苦の解脱の道を生命の真実のありようのなかに、仏法として解決されたのです。

 私たち仏教者は、このようなお釈迦さまの教えにより、世法だけでは幸せに生きてゆけず、世法と仏法の二つが必要であることを学得しているのです。 
(駒澤大学名誉教授)
11月の法話】 「菩提樹下の悟りと縁起(えんぎ)」     111日号
         

                  
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義 
  お釈迦さまの菩提樹下の大いなる悟り(成道)の内容について、諸経典には、①不死の法、②縁起の法、③真如(真理)の三説が、説かれております。

 ①不死の法とは、お釈迦さまが二十九歳のとき、隣人の老病死の苦悩をみていて、幸せな自分にもあのような老病死の一大事があると悟られて、死してゆく深い苦悩(悲・カルーナー・うめき)を感じ、この苦悩より解脱せんと、沙門という修行者になって六年の求道をされ、ついに菩提樹下の座禅行中に問題解決を得、「我不死を得たり」と叫ばれ、説き示されたものです。

 つまり、人はいつかは死んで土くれとなっていくと悟られたお釈迦様が、自分個人の生命は死するが、自分個人の生命のなかに死なないで、生命として生まれてより三十数億年生き、また、自分より子孫へ永遠に生きんとしている「三世十方の生命」があることを悟り、この生命こそ、自分においての不死であると説いているのです。

 お釈迦さまは、この不死なる三世十方の生命のありよう(真如)のなかに、死苦からの解脱の道や、人生の目的を悟られ、私たちへと説き示されて、仏教が生まれたのです。

 ②縁起の法とは、自分と三世十方の生命は、実体的な存在(我)でなく、多くの因と縁により生起し、生滅している因縁生起なる存在であると、お釈迦さまは説き示したものです。

 自分は多くの因と縁により生起し、生滅しているから縁起であり、自分という実体はなく「無自性」であり、したがって自分は実体でなく縁起性のもので自分は「空」である。私たちの存在は、縁起であり、無自性であり、空である(五蘊皆空)というのが、真実のありようなのです。また、三世十方の生命も実体でなく縁起なるものです。自分はその意味で仮の自分である(仮設有(けせつう))のです。真実は、縁起なる三世十方の生命が私たちの当体であるのです。

 お釈迦さまは、自分(自我)を中心とした世界を世法とし、三世十方の生命の世界を仏法と説き、仏教者は、世法と仏法を正しく理解して生きねばならなく、世法だけでも、また、仏法でけでも生きられず、二法をもって生きよと教えています。

 ③真如(真理)とは、真実のことで、一つには、お釈迦さまが悟った自分の真実のありようが縁起であり、真実の当体は、縁起なる三世十方の生命であるという人間の真理のことです。もう一つは、お釈迦さまの出家求道の課題であった、自分がなんのために生まれ、生き、みずから死してゆくのかという迷いの解決である人生の目的を悟る道と、死苦からの解脱の道です。四諦、三帰依、六度の教えが、この悟りと解脱の道です。

 お釈迦さまは、人生の目的を悟る道と生死からの解脱の道を、まず、お釈迦さまの全生涯を学んで自分を正しく理解し、その上に、根本教理をの苦集道滅の四諦説と、仏と法と僧伽の三帰依説と、持戒・精進・禅定・智慧・忍辱・布施の六度説を学び、正しく理解し、信仰し、実践することにより、だれもが、仏教の課題である人生の目的を悟り、生死苦を解脱して安心と生きがいが得られると説き示されています。

 お釈迦さまの説かれたこの「不死」と「縁起」と「真如」の三つの教えは、悟りの内容と人生の目的と生死苦からの解脱の道を説き示したもので、私たち仏教者にとって大切な教えであります。

 常真寺サンガの活動により、この教えを正しく学び、信仰し、実践して、自分の悟りと安心と生きがいをつくっていきましょう。     (駒澤大学名誉教授)
 12月の法話】 「浄土 生きているときと死んだ後」    121日号

                 
 常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義
 仏教の浄土には、生きているときの浄土と(仏土)と死んだ後に行く浄土の二つがあります。

 生きているときの浄土は、寺サンガや家サンガデで、仏法を学び、信仰し、実践して、自分の悟りと安心を得ているところであります。つまり、私たちの修行の道場である寺と家が浄土であり、また、その道場の修行によって悟りと安心を得ている私たちの信心の中が、浄土であることになります。

 この浄土を私たちがつくるために、お釈迦さまは、根本教理としての四諦の教えと三帰依の教えと六度の教えを説き示されています。この四諦・三帰依・六度の教えを寺サンガや家サンガの中で正しく学び、信仰し、実践して、信心の中に悟りと安心を得ているところが浄土となります。

 私たちが死んだ後に行く浄土は、お釈迦様の教えにより、亡くなり、生きている人々との別れである通夜の儀式をし、翌日人から仏さまに生れかわる仏教の葬儀をし、仏さまの名前をお釈迦さまよりいただき、仏さまになり、そして、菩提寺と家の仏壇と墓の三ヶ所にまつられ、ここが死後の浄土となります。

 私たち仏教者は、死後葬儀をして仏さまになり菩提寺と仏壇と墓にまつられ、そこを美しく荘厳していただき、寂滅浄土としています。また、葬儀をして仏さまとして信仰していただいている残された人々の生命と信心の中にも仏さまとして内在化して生きているので、その人たちの生命と信心の中が浄土になります。
 お釈迦さまが、このような死後の浄土をつくってくれているので、私たち仏教者は死んで仏教の葬儀をして仏となり、先に亡くなって仏となっている人々と浄土で逢うことができるのです。私たちは、生きているときに、死んだ後の浄土である菩提寺と仏壇と墓をつくっていないと浄土に行くこともできず、行く先が無くなり迷うことになります。

 お釈迦さまは、私たちのために、亡くなると葬儀をして仏さまになる道をつくり、仏さまとして残された子孫の生命と信心のなかに再生させてくれているのです。

 私たち仏教者は、身近な人々が亡くなると仏教の葬儀をして、仏さまとして再生し、寺と仏壇と墓に外なる仏さまとしてまつり、その外なる三ヶ所の仏さまを供養し、信仰することを通して、自分の生命と信心のなかに内なる仏さまとしていだき、仏さまと共生する信仰をつくり、その仏との祈りを通して、生きているときと同じように対話する道をつくっていただいているのです。

 私たち仏教者は、自分の信心のなかに共生している仏さまから祈りを通してたくさんの教えをいただくことにより、生涯仏さまより悟りと安心をさずかることができるのです。これを、仏共生の信仰により、仏功徳を共有する信仰をつくるというのです。

 また、私たち仏教者は、このようなお釈迦さまの教えにより、死後、仏となり、残された人々の外なる仏としての信仰によって、うちなる仏となり、人々の生命と信心のなかに仏として再生しつづけ、人々と対話し続けるという、とほうもない営みをすることになります。そして、私たち仏教者は、この残された子孫の人々の信心のなかで、お釈迦さまと同じように久遠の仏となるのです。    
(駒澤大学名誉教授)

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