Ryokuyin Zen Sangha

法話&Photo Gallery 【喫茶去】
喫茶去とは?

平成23年の法話
【1月の法話】 「お釈迦さまの願い」  【7月の法話】 「仏教のお盆」
【2月の法話】 「お釈迦さまの涅槃」  【8月の法話】 「死後への不安」
【3月の法話】 「御布施について」  【9月の法話】 「菩提寺と檀家」
【4月の法話】 「お釈迦さまの誕生の意味」  【10月の法話】 「生きているときの安心死後安心」
【5月の法話】 「なんのために生きる」  【11月の法話】 「出家と在家の仏教」
【6月の法話】 「生きているときの成仏死後成仏」  【12月の法話】 「有余の成仏と無余の成仏」

 
【1月の法話】 「お釈迦さまの願い」    1月1日号
         
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義
 お釈迦さまは二十代の前半まで、なに不自由のない幸せな生活をされていました。しかしその後半になり、隣人の老病死を見ていて自分にも間もなくあのような一大事がくると悟られました。そして幸せな生活がゆらぎだし、深い生死の苦悩に打ちひしがれました。自分は何のために生れ、今生きているのか。そして、自分はなぜ老いと病の苦しみの中に死んでゆかねばならないのか、人生の目的について深く考えることになりました。また、どうしたら苦しみを解脱して安らかに老い、安らかに死んで行くことができるのかと考えました。当時、このお釈迦さまのもたれた人生の目的と、生死の苦悩を解脱して安心を得る道は、まだ人類が明らかにしていませんでした。

 お釈迦さまは二十九歳の時、国王への道を捨ててこの問題を沙門(しゃもん)という宗教者になることにより、解決しようとされました。沙門は、樹下石上、三衣一鉢のきびしい生活をする求道者です。お釈迦さまは六年の求道の後にブッダガヤの菩提樹下の坐禅中に、自分の真実は「三世(さんぜ)十方(じっぽう)生命(いのち)」であることを悟り、この三世十方の生命のありようの中に人生の目的と生死の苦悩からの解脱道を発見されました。

 三世十方の生命とは、自分は人間であり、人間は生物であり、生物は生命の乗物であります。そして、生命は生まれた時より現在までさらに未来へ乗物である生物を乗りかえながら、永遠を求めて生きている時間的に三世の生命であるということです。また人間を含めて全生物は、その生命によってつくられた同根のものであり、同事であり、空間的に十方の生命でもあるということであります。

 この三世十方の生命の実相の中にお釈迦さまは、人生の目的は自分の人生だけでなく、生命を永遠に伝えるための人生でもあることを悟られたのです。このことを私たちは、成長して一人前になると結婚して家庭をつくり、子供をさずかり、育て、教育します。そして家庭で孫もさずかり、育て、教育し、曾孫が生まれる頃になると、彼らに生きる場をゆずるように死して、生命と文化を永遠に伝承しようとしているのであります。

 私たちが姓と名を持っているのは、このような意味があってのことです。姓は永遠に生きる生命を意味し、名はその生命の乗物である自分自身のことです。したがって、結婚は自分たちだけでなく、生命を永遠に伝承するための営みであるのです。二人の結婚であると同時に生命のため、つまり家のための結婚でもあるのです。

 このようなお釈迦さまが悟られたまことの人生の目的を現代の人々が忘れていることを、お釈迦さまは大変心配されており、正しく理解して皆が幸せな人生を生きられるよう願われているように思います。

 また、生死の苦悩を解脱して安心を得るためには、家庭が大切な場であり、家庭サンガの中で仏教の教えを学び、信仰し、六度の実践をして安らかな老いや死が成就できるのです。この家庭サンガを育てるために寺サンガの活動もなくてはなりません。寺サンガの活動を通して各家庭が豊かになり、また寺サンガも豊かになるのです。(駒澤大学名誉教授)

 
【2月の法話】 「お釈迦さまの涅槃」    2月1日号
         
常真寺 住職(緑蔭禅の集い 主幹) 皆川 廣義
お釈迦さまは二十代の後半まで、平和な時代に物質的にも精神的にも恵まれた環境の中で育ち、幸せな生活をされていました。しかし二十九歳のとき、身近な人々の老病死の苦しみを見ていて、自分にもあのような一大事が間もなく訪れてくると悟り、深い苦悩をもつようになりました。そして、生死の苦悩を解脱するため国王への道を捨てて、沙門というきびしい修行をする求道者になりました。

お釈迦さまは六年の求道の後、ブッダガヤの菩提樹下の坐禅中に自分が「三世十方の生命」なることを悟り、この生命の実相の中に人生の目的を悟り、生死の苦悩からの解脱道を発見されました。

お釈迦さまの成道は、自分が三世十方の生命なることを知らないで主人公だと思っている無明と、それがつくり出す煩悩が生死の苦悩の原因であることを悟り、この無明と煩悩を滅することにより悟りと安心が生まれるという発見でした。


お釈迦さまはこの自分の真実のありようを悟り、生死の苦悩から解脱して安心を得ることを発見した智慧を「菩提(ぼだい)」と名付けました。この菩提を得るための行として、六度の①持戒②精進③禅定④智慧の四つの実践を説き示されました。仏教者は、まずこの菩提行の実践をして、お釈迦さまと同じ菩提(智慧)を得なければなりません。次に、菩提(智慧)によってとらえられた、生死の苦悩を作り出している煩悩を捨てる行を実践して、安心を得なければなりません。お釈迦さまは、この煩悩を捨てる行を「涅槃(ねはん)」行と名付けました。そして、この涅槃を得るための行として、六度の⑤忍辱⑥布施の二つの実践を説かれました。

お釈迦さまの教えは、生死の苦悩を解脱するため菩提行と涅槃行を実践し、悟りと安心を得る道であります。つまり生死の苦悩を菩提行と涅槃行により、悟りと安心へ転じる教えであります。したがって、よくよく自覚していただきたいのですが、生死の苦悩の無い人、また菩提行と涅槃行を実践しない人々は仏教の悟りと安心を得ることができないのであります。

お釈迦さまをはじめとしてすべての仏教者は、生死の苦悩を解脱するため生涯にわたり、菩提と涅槃行を実践して悟り(菩提)と安心(涅槃)を得、仏さまとなるのであります。また仏教は菩提を求める宗教でなく、菩提により涅槃を求める宗教で、苦悩を解脱して安心を求めるものであります。

お釈迦さまは、涅槃を「有余の涅槃」と「無余の涅槃」の二つに分けて説かれています。

有余は生きているときのことで、無余は亡くなった後のことです。生きているときの涅槃は、人は生きるために煩悩が必要なので、すべて滅しては生きて行けません。ですから、生きているときは完全な涅槃ではありません。亡くなったときの涅槃は、どんな仏教者でも死によってすべての煩悩を完全に滅尽しているので、完全な涅槃となります。

このような教えに基いて私たち仏教者は、お釈迦さまの死を完全な涅槃と受け取り、その亡くなられた二月十五日を「釈尊涅槃会」としてその徳をたたえ、報恩のまことをささげるのです。
 
【3月の法話】 「御布施について」    3月1日号
         
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義
 御布施は、私たち仏教徒が人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して安心と生きがいを得るためにする大切な行であります。お釈迦さまは、悟り(菩提)と安心(涅槃)を得る行として六つの行(六度)を説き示されています。この六つの行の中の一つとして「布施」行があります。

 布施は、自分の大切なものを他者にもらっていただく行です。それは、大切な心やものには煩悩が付着していて、苦悩の原因となっているからです。つまり、苦悩の原因である煩悩を捨てて、安心を得るために行じるのが布施行なのです。

 私たちの日常生活をよく考えると、自分の大切なものを他者に差し上げる行為をしています。例えば、お世話になった人にお礼をしたり、困っている人々にものを差し上げたりしています。お釈迦さまは、このような日常行為が仏教の修行になるように、自覚的に自分の苦悩の原因となっている煩悩を捨てて、安心を得る行として実践しなさいと教えているのです。したがって、ものを他者に差し上げる行為は、日常生活では他者への思いやりからの利他行となりますが、仏教では自分の安心を得るための自利行となります。

 仏教徒の布施行は自分の安心を得るために、苦悩の原因である煩悩を捨てる行として行う自利行ですが、それを受ける人々にとっては、有り難い利他行となっています。つまり仏教徒の布施は、自利と利他が一行の中に具足したすぐれた行になっているのです。

 現在、檀信徒の皆さんが寺まいりや法要のときに菩提寺へ納める「御布施」は、本来お釈迦さまのこのような教えに基いてなされているものであります。

 また、菩提寺は檀信徒の方が亡くなりますと、通夜の儀式をして人間としての別れをします。次に、葬儀をしてお釈迦さまより仏さまの名前「法名」をいただき、仏さまになる儀式をします。その後、菩提寺は、この葬儀をして仏さまになった先祖仏を永代おまつりいたします。この菩提寺に永代まつられている仏さまへの報恩感謝と、寺で仏さまを永代護持してゆくために御布施を納めさせていただいているのです。

 他の宗教の葬儀では、葬儀当日の謝礼として料金が支払われています。しかし、仏教の葬儀では亡くなった人との最後の別れをし、葬儀により仏さまとなっていただき、菩提寺に永代供養することを含めて御布施として納めていただいているのです。仏教の御布施は、僧侶への謝礼ではないのです。僧侶は、御布施を私してはなりません。御布施は、檀信徒が仏さまへの報恩感謝と永代供養のためにも納めるものなのです。

 私たちの常真寺は、創立以来約四百五十年の歴史を歩んできています。それは皆、檀信徒や住職の布施行により、護寺運営されてきたのです。国や団体からは一銭もいただいておりません。

 御布施は、本当に有り難いものであります。布施行は、人生の目的を悟らせていただき、生死の苦悩を解脱して安心と生きがいをいただく有り難い行であると共に、仏さまへの報恩感謝、永代供養、仏さまをまつる菩提寺の護寺のための行でもあるのです。(駒澤大学名誉教授)
 
【4月の法話】 「お釈迦さまの誕生の意味」    4月1日号
         
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義
 お釈迦さまは、今から約二千五百年前にインドのルンビニーで、釈迦国王スッドダーナを父とし、マーヤーを母として四月八日に生れました。

 私は、仏教を学んで、お釈迦さまがこの世に生まれなかったら、私も生れることはできなかったことを知りました。多くの日本人も、皆そうであるように思います。本当は、私たちとお釈迦さまは、深い因縁で結ばれているのです。

 私は、昭和九年五月一日に常真寺の住職の義秋を父としてハマを母とし、本堂で生まれました。生れた寺も、僧侶であった父も道元禅師が禅仏教を中国より日本へ伝道してくれなかったら存在しませんでした。道元禅師も、禅仏教を達摩さんがインドより中国へ伝道してくれなかったら存在しません。達摩さんも、お釈迦さまが仏教を開かれなかったら存在しなくなります。仏教も、お釈迦さまがルンビニーで誕生されなかったら生まれませんでした。このように歴史的に仏教の歩みをさかのぼって考えると、お釈迦さまが誕生し、仏教を開示していただいたから、二千五百年後に私は生まれることができたのです。

 このことを私は、駒澤大学で卒業論文を書いているときに悟り、お釈迦さまの偉大さを知り、深い因縁に感動いたしました。それまでは仏教より逃げようとしていましたが、それからは全身全霊で仏教を学ぶことができるようになりました。

 日本では、仏教が伝来した飛鳥時代から聖徳太子などの努力により、日本人の精神的バックボーンとなってきました。日本人は、仏教のもたらした智慧(菩提)、慈悲、法悦などにより、他の国の人々と比較しても豊かに幸せに生活してきました。私は、日本人のルーツをさかのぼって考えると多くの人にとって、仏教がなかったら生れてこなかったと考えています。つまり、お釈迦さまが二千五百年前ルンビニーで四月八日に誕生されたことにより、私たちも誕生させていただいたという、途方もない因縁があるのです。

 お釈迦さまがモンゴロイドであったとする説があります。そう考えると、お釈迦さまの先祖は約六千年前、中国の長江流域で米作を発見したモンゴロイドで、中国文明を開いた人達になります。私たち日本人の先祖も、この米作文明をつくり出した同じ民族です。お釈迦さまの先祖は西の果て、私たち日本人は東の果てで、それぞれ米作文明により栄えて来たのです。自称ではありますが、お釈迦さまの子孫は現在、ネパールのパタン周辺で仏教徒として米作をしながら繁栄しています。

 お釈迦さまと私たち日本人は、現在生存している民族のコーカソイドやネグロイドの人々より、米作をするモンゴロイドとして近い親族なのです。

 お釈迦さまは、このように私たちを誕生させてくれた恩人であり、また、同じ米作文明を持った同じ民族であったことを私たちは忘れてはなりません。

 その上、お釈迦さまは、私たち仏教徒にとって人生の目的と生死の苦悩よりの解脱道を教えてくれている大恩教主でもあるのです。(駒澤大学名誉教授)
【5月の法話】 「なんのために生きる」          5月1日号
         
                
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義

 私たちは、自分のために生まれ、生きていると思っていますが、これだけでよいのでしょうか。

 お釈迦さまも二十代の後半までは、そのように考えて生きておられました。しかし、二十代の後半になって身近な人々の老病死の苦しみから、自分の死を自覚して、いつまでも生きていたいのにどうして自分は死んで行くのかという矛盾を悟られ、自分のためでないというものがあることを自覚されました。

 そこで、お釈迦さまは、自分はなんのために生まれ、一生懸命に生き、死んで行くのか、本当の人生の目的はなんなのかという課題を持たれることになりました。

 六年のきびしい求道の後、ブッダガヤの菩提樹下の坐禅中にこの課題を解決し、安心を得る道を発見されました。 

 お釈迦さまの菩提樹下の悟りは、自分の真実は人間であって、生物であって、生物は生命の乗物であり、自分がその生命であるというものでした。真実の主人公である自分の生命は、時間的にはこの地球上に誕生してより、親より子へと伝承され、また、子孫に伝承され、未来へ永遠を目指して生きようとしているものであり、空間的には、人間も生物もすべて生命同根であり、同事なるものであるということです。仏教では、このように途方もない働きをもった生命のことを「三世十方の生命」と、呼んでいます。

 お釈迦さまは、この自分の真実体である三世十方の生命のありようの中に、自分が生物として生命を永遠に伝承するために生命の乗物として生まれ、そして、自分の生命を子どもや孫に伝承し終えると、自ら死して子孫に生きる場をゆずり、生命を永遠に伝承する営みをしている事実を自覚されたのです。

 つまり、私たち生物は、生命という自分の真実体を永遠に伝承するために生まれ、このために結婚し、家をつくり、その家で子孫を生み育てて、曾孫が生まれるころになると、子孫に生きる場をゆずるため死んで行くのです。

 ただ、人間だけは、心をもった動物として生命の法則の枠内で、自分の人生を生きることがゆるされた存在です。人間の心の中には、無明があり、煩悩があって、これらが生命なる真実を忘れ、自分のために生まれ生きていると、虚妄分別(こもうふんべつ)しているのです。

 この人間の虚妄分別は、豊かな文明をつくり出しているものでもあります。しかし、一方で自分の生命なる存在を忘れさせ、迷いと苦悩をつくり出しているのです。人間にとって、この虚妄分別は、無くすことができないものであり、また、無くしては生きて行けない存在です。虚妄分別に引きずり回されて苦悩している生活より、虚妄分別をコントロールすることにより、悟りと安心を得る道が、お釈迦さまの教えです。

 私たちは、自分の生命のためと、自分のための二つの目的をもって、人生を生きているのです。(駒澤大学名誉教授)

 【6月の法話】 「生きているときの成仏と死後の成仏」   6月1日号
         
                
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義
 成仏とは、お釈迦さまの教えを学んで、お釈迦さまを信仰し、仏教者の修行グループ(僧伽(さんが))の中で、六度(菩提行と涅槃行)の実践をして、仏教者の人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して、安心と生きがいを得ることです。

お釈迦さまは、だれもが教えを学び、信仰し、サンガの中で六度の実践をすることにより、成仏・仏さまになることができる道を、説き示されています。

お釈迦さまの教えを学ぶ前に、まず、その御生涯を学び、お釈迦さまの人柄を正しく知りましょう。その後、お釈迦さまの教えである根本教理を学びましょう。

お釈迦さまの根本教理は、①四諦説、②三帰依説、③六度説です。まず、この教えを学んで、正しく理解し、お釈迦さまが願われているように、悟りと安心を得て、仏さまとなりましょう。

仏教は、私たちが生きているときに迷いを転じ悟りを得、苦悩を滅し安心を得、仏となる教えです。しかし、人間は生きているときには、すべての無明と煩悩を滅することができません。したがって、完全な成仏でなくて未完成の成仏となります。生きているときの成仏は、迷いと苦悩が生じたとき、仏信仰と仏行により、これを悟りと安心に変えることにより生まれます。この仏信仰と仏行の実践の継続の中に、生きているときの成仏があるのです。

また、お釈迦さまは、「すべての人はいただいた生命を子どもと子孫に伝承し終えると、ゆずり葉のように自分から死して、自分の生きる場を子孫にささげ、すべての無明と煩悩を捨て、完全な仏さまとなる。」と説き示しています。死は、自分の身心の無化であり、身心の上にある無明と煩悩もなくなり、成仏して完全な仏となるのです。

お釈迦さまは、このように成仏について、生きているときの成仏と死後の成仏の二つの成仏を説き示されているのです。仏教者にとって、この二つの成仏を正しく理解することが、大切なことなのです。

生きているときの成仏は、仏信仰と仏行の実践により、だれもがなることができるものであり、仏教者の死は、だれもがお釈迦さまと同じ完全な涅槃(安心)を成じ、完全な仏になります。したがて、仏教では死後に地獄に落ちて苦悩するとは説かないのです。死後の往生は完全な成仏なのであります。

現在、この教えを知らないで間違って理解している仏教の僧侶や信者が多いので、注意して下さい。往生極楽は、親鸞さんだけの教えではなく、お釈迦さまの教えなのです。仏さまは、迷い苦悩しないのです。  
 夢などで、亡くなった人が苦悩していることを見ることがありますが、「それは、その夢をみた人に心配することが生じているので、その人のことを思って仏さまが心配して苦悩されているのだ。」というのが、お釈迦さまの説示であります。亡くなって仏さまになった人を苦しませないようにすることが、残された私たち仏教者のつとめであります。私たちが、お釈迦さまの教えを学び、仏信仰し、仏行を実践して悟りと安心を得、幸せになることが、何よりの仏さまへの御供養になるのであります。(駒澤大学名誉教授)              
 【7月の法話】 「仏教のお盆」                     7月1日号
         
                
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義
 お盆」という言葉は、インドのウランバナという言葉の音訳です。ウランバナという言葉は、「さかさまにつるされた苦しみ」という意味で、人間の最も深い苦しみのことです。

ウランバナは、人間が自分の死を自覚したときにもつ、「うめきの苦悩」を意味しております。

お釈迦さまの十大弟子の一人で神通力第一といわれた目連(もくれん)さんのお母さんが、このウランバナという苦しみに悩んでいました。目連さんは、ナーランダの裕福なバラモンの家の長男として生まれ、お釈迦さまと同じように、幸せに育ち、成人されました。目連さんは、同じ町の友人舎利弗(しゃりほつ)さんと二人で、人生の修行をしようと、マガダ国の山の都ラージャガハで、お釈迦さまのところで求道をはじめられました。お釈迦さまたち沙門は、樹下石上、三衣一鉢の厳しい修行をいたします。お母さんはこの求道中の目連のことを思って病気になり死んでしまうのではないかと心配されて、夜も休むことも出来なくなり、とうとうウランバナという苦しみに打ちのめされることになったのです。

目連さんは、人づてにお母さんの苦しみを聞き、お釈迦さまに、どうしたらお母さんをこの苦悩より、救いだすことができるか相談されました。すると、お釈迦さまは、「夏の修行が修了する七月十五日に、竹林精舎で修行しているすべての修行者に、朝の食事の供養をしていただくとお母さまの苦悩はなくなり、安心が得られる。」と教えられました。お母さんは目連さんからこの供養の願いを聞き、多くの家人と共に、七月十五日の朝の供養を一生懸命つとめました。供養が終わった時目連さんのお母さんの苦悩は、みごとになくなり、悟りと安心を得ることができました。どうして、こんな不思議が、目連さんのお母さんに生まれたのでしょうか。

目連のお母さんは、多くの修行僧への供養をすることにより、こんなにたくさんの人が、自分の子と同じように一生懸命修行されていたことを知り、自分の子だけしか考えていなかったことを反省し、十方をみるおおらかな智慧(菩提)が生まれました。また、多くの修行僧に、自分の大切な食物を布施することを通して、自分の煩悩をすてて苦悩の原因をなくし、安心を得ることができたのです。このようなお話から、お盆という仏教の行は、生まれました。

自分の子を愛するということは、親として大切なことです。しかし、この限られた愛だけだと煩悩が入り込み、苦悩をつくり出すことになります。お釈迦さまは、限られた愛より、大きな愛を実践することにより、煩悩をすて安心を得る道を教えているのです。仏教のお盆は、自分が信じている仏(お釈迦さま、祖師仏、先祖仏)だけでなく、無縁になっている仏さまを年に一度お迎えして、共に供養して大きな愛を実践し、悟りと安心をいただく行事なのです。

私たち仏教徒は、自分の仏さまを毎日供養しています。その上、年に一度、無縁の仏さまを迎えて大きな愛の実践としての供養をするのです。お盆に玄関先で行う迎え火、送り火の行事は、この無縁仏の送迎をする大いなる愛の実践です。
 【8月の法話】 「死後への不安」             8月1日号
                
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義
お釈迦さまは、自分の生きているときの死の矛盾を明らめて人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して安心と生きがいを求めて出家し、宗教者となられました。

六年の求道の後、ブッダガヤの菩提樹下の悟りによりこの課題を解決する道を発見されました。

お釈迦さまの出家求道は、生きている自分の不安を解決することが課題でありました。

しかし、成道後四十五年の伝道のなかで、多くの人々が、死後への不安をお釈迦さまに相談し、その不安の解決を求められたので、その不安を取り除く道を説き示されています。

まず、自分の死後は、悩む自分の身体も心も死してなくなっているのであるから、不安も生じようもないから安心しなさいと説き、死後の不安は、生きているときのものであるとしています。

お釈迦さまの教えによると、自分の死後の生命は子孫に伝承されて生き続けており、また、死後、仏教の葬儀をして、お釈迦さまより仏名をいただき、菩提寺や墓のいまつられ子孫の信心のうちに仏さまとして再生し、子孫が仏さまとして信仰し続けるかぎり、生き続けています。
 
このようなお釈迦さまの教えにより仏教者は、自分の死後に子孫の生命と信心のなかに、仏さまとして生き続けていると悟り、死後への不安を乗り越えているのです。

仏教の安心は、成人となり結婚し、子孫を授かりよき家庭をつくり、寺サンガや家サンガで仏の教えを学び、信仰し、行じることによって、悟りと安心を得ることができるのです。
 
つまり、私たち仏教者は、成人となり結婚し家庭をもち、ここで子どもを授かり、一人前の成人に育て上げ、その上、子ども達を寺サンガや家サンガの活動のなかで、教えを学び、信仰し、行じる仏教者に育てあげることにより、死後への不安を取りのぞき、本当の安心や生きがいが生まれるのです。

一人前の人間として育てていただき、その上、仕事をもち、結婚し、家庭で子どもを生み育てあげることは、世法(せほう)として、大切な営みです。その上、心をもった動物としての私たちは、世法で解決できない課題を、仏法を学び、信仰し、行じることにより、人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して安心と生きがいを得なければなりません。私たちは、この世法と仏法の二つを具足した生活をすることにより、豊かな人生を歩み、悟りと安心を得られるのです。


仏教者の悟りと安心は、どうしても、家と寺、つまり家サンガと寺サンガの活動があって、可能になるのです。現代では、結婚し家庭をもたない人が多くなりました。この人達は、寺サンガの活動のなかで、生きているときの不安と死後への不安を取りのぞいていかねばなりません。私たちは、今後このような、家サンガに属しない人達を救う活動を考えてゆかねばなりません。
【9月の法話】 「菩提寺と檀家」              9月1日号
                         
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義
 寺は、まず、一人の僧が家々を廻って、お釈迦さまの教えを説き示し、仏さまを信じる人をつくり、その僧と信者たちが、仏をまつり、仏法を学び、信仰する道場として、建立されたのです。常真寺も、約四百五十年前、開山の祥山永吉大和尚と信者たちにより創建されました。

寺は、お釈迦さまの教えがあって、その教えを自ら信じ、人々に伝えたいと願う僧が、伝道をし、信者をつくり、この僧と信者たちにより、仏をまつり・教えをまなび・死の矛盾を明らかにして人生の目的を正しく悟り・生死の苦悩を解脱して安心と生きがいを得る道場として、建立されたのです。

私たちの菩提寺には、御本尊のお釈迦さまと、仏教を今日まで代々伝えてきた祖師仏(僧)と、葬儀をして仏さまになった先祖仏の三つの仏さまがまつられています。

先祖仏は、亡くなられてより通夜の法要をして人間として最後のわかれをし、その上に、仏教の葬儀をして、お釈迦さまより仏さまの名前(法名)をいただき、お釈迦さまや祖師仏と同じ、完全な仏になった方です。他の宗教では亡くなった方は単なる先祖ですが、仏教では悟りと安心を成就した完全な仏となった先祖仏(せんぞぶつ)であります。この(あかし)となるものが葬儀のとき授与する『御血脈(おけちみゃく)』で、骨つぼに入れ、仏舎利と共に墓におまつりしています。

私たちの御先祖様たちは、このような菩提寺との関係を正しく知って入檀し、寺で仏法を学び、信仰し、悟りと安心を得てきたのです、そして、この信仰を子孫に代々正しく伝え、家門繁栄と子孫長久をはかってきたのです。

菩提寺は、住職()と檀信徒のあつまりによる聞法修行のグループです。このようなグループを仏教では僧伽(さんが)と呼んでいます。

寺でする活動は、朝夕の勤行、一日三回の梵鐘、日曜礼拝法話、一泊参禅会、『常真寺便り』の刊行配布、仏祖会大法要、御年始廻り、お彼岸とお盆の棚行、葬儀法事、本堂境内地の清掃などすべてが寺僧伽(てらさんが)の活動です。

この寺僧伽の活動により、各檀家の家族による聞法修行のグループ、家僧伽(いえさんが)が生まれました。

私たちは、この寺僧伽と家僧伽の聞法修行をより充実させ悟りと安心をたしかなものとしてゆきたいと思います。

仏教では、外なる仏と内なる仏への信仰をもっています。

外なる仏は菩提寺や仏壇にまつられている仏と墓に仏舎利としてまつられている仏です。

お釈迦さまは、「外なる仏をまつり、供養し信仰することにより、仏さまを自分の生命と信心のなかに内在化し、生涯この内在化した内なる仏と共に生きてゆきなさい。」と説き示しています。

外なる仏への信仰により、内なる仏を育て、内なる仏の信仰により外なる仏への信仰を深め、この外と内との仏への円環的信仰の深まりにより、仏さまと共に生きる信心が生まれてきます。

そして、この仏共生の信心のなかに、多くの仏たちを有する功徳を凡夫としての自分に共有させていただく不思議が生まれるのです。この仏功徳共有のなかに、私たちの悟りと安心が授かるのです。(駒澤大学名誉教授)
  【10月の法話】 生きているときの安心と死後の安心」 10月1日号

                
 常真寺 住職【緑蔭禅の集い主幹】   皆川 廣義
 
 お釈迦さまが、二十九歳のとき、国王への道を捨ててまで、宗教者となって求めたものは、死にたくない自分自身が死をつくる矛盾を明らめて、人生の目的を悟り、自分の生死苦を解脱して、安心と生きがいを得んがためでありました。

つまり、お釈迦さまの出家求道の目的は、自分自身の生きているときの安心と生きがいを求めたものでした。

お釈迦さまは、この出家求道の目的を、六年の求道の後に、ブッダガヤの菩提樹下の大きな悟りにより、得られました。

お釈迦さまは、樹下石上、三衣一鉢、行乞によって生きる沙門(しゃもん)という宗教者になって、聞法と坐禅修行を、マガダ国のラージャガハという山の都で始められました。この都には、インド中よりすぐれた宗教者が集まっていたからでした。

始め、アーラーラ・カーラーマという坐禅の先生につき、教えを聞き悟りを得ました。次に最高の智慧をもたれたウドラカ・ラーマプッタという坐禅の先生につき、教えを学び、悟りを得ました。安心の道を発見することはできませんでしたが、無明と煩悩が苦悩の原因になっていることを悟りました。

そこで、お釈迦さまは、この生死の苦悩の原因たる無明と煩悩を滅するため、苦行をすることになり、ラージャガハの都より西南七百キロにあるウルヴェーラの苦行道場へ行き、修行されました。

極端な修行をしましたが、安心への道は発見されませんでした。それ以上、苦行を進めると死んでしまうような状態のとき、農夫の歌より、苦楽の中道が進むべき道であることを悟りました。ブッダガヤの菩提樹下で中道としての坐禅を行じているとき、大いなる悟りを得、人生の目的を悟り、生死の苦悩から解脱して安心と生きがいを得る道を発見し、生きているときの安心を得られたのです。

成道されたお釈迦さまは、自分と同じ迷いと苦悩がすべての人々にもあることを知り、自分の得た道を、すべての人々へ伝道せねばならないと自覚しました。

お釈迦さまの説示された安心の教えは、四諦と三帰依と六度の実践です。

お釈迦さまは、一人で伝道をするには限界があるので、はじめに自分と同じく伝道をする僧の養成をし、この数千人の僧たちと共に伝道されて、十年もたたないうちに全インドの人々に、教えを説き示し、悟りと安心を与えることができました。

次に、お釈迦さまは、外国の人々へ伝道を展開されました。

 最後に、お釈迦さまは自分の死んだ後にも、全人類に伝道されるような努力をされ、四十五年の伝道をして、八十歳のときクシナガラのサーラの林で亡くなられました。

お釈迦さまは、四十五年の伝道のなかで、人々が自分の死後への不安と子孫への心配を持たれていることを知り、「私たちは個としての存在であるとともに、三世十方の大いなる生命である。」と説き、生命として家の続く限り永遠に子孫の生命の中に生き続けると、死後の安心を示されました。また、仏教者の死は、自分の煩悩をすべて滅した、仏行の完成であり、完全な安心(涅槃)であると説き示されています。つまり仏教者には、死後の苦悩は無く、葬儀をしてお釈迦さまと同じ完全な仏となり、安心は決定するのです。駒澤大学名誉教授)
 【11月の法話】 「出家と在家の仏教」                   11月1日号
         

              
  常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】  皆川 廣義
 仏教を正しく理解していただくため、「出家(しゅっけ)」「在家(ざいけ)」という言葉について、お話させていただきます。

一般に、出家は僧侶のこと、在家は仏教信者のことと考えられています。

出家というのは、お釈迦さまが、二十九歳のとき、人間はなんのために生まれ、生き、そして死んでゆくのか、人生の目的はなんなのかということと、死苦からの解脱を求めて、家という建物を出て、沙門として樹下石上に生活して、厳しい求道をされたので、このお釈迦さまのことを尊敬して人々は、出家と呼ばれたのです。

お釈迦さまは、この厳しい出家の生活をブッダガヤで成道された後もつづけられ、八十歳でクシナガラで亡くなられるまで一生涯なされました。私たちが、お釈迦さまを出家と呼ぶのは、このきびしい求道と伝道の生涯をおくられたことへの畏敬の念をもってお呼びしているのです。

この出家の仏教者は、お釈迦さまと直弟子達だけでした。その後の仏教の僧侶は、ほとんどが、寺という建物に住んでおり、在家の僧でした。沙門であった出家の僧は、樹下石上、三衣一鉢で行乞の生活をして、自分の悟りと安心を求め、それに人々への伝道をする人でした。仏教の僧には、お釈迦さまと直弟子達のような出家の僧と、寺という建物に住んでいる在家の僧とがいることになります。仏教の信者もほとんどが在家です。  

仏教者は、大きく僧と仏教信者の二つに分けられます。僧も信者も、お釈迦さまの教えを学び、信じ、実践することにより、自分の人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して、安心と生きがいを求めている点では同じであります。仏教の悟りと安心は、その人のもので、僧侶が高くて、信者が低いということはありません。おそれ多いことですが、お釈迦さまの悟りと安心と、私たちの悟りと安心は、同じであるのです。

しかし、お釈迦さまと直弟子達の出家の僧と、在家の僧との違いはあります。それは、お釈迦さまたち出家の僧の方が、在家の僧より出家生活によって生まれる苦悩の原因である無明と煩悩の滅し方が多く、深い智慧(菩提)と安心(涅槃)をもっています。そして、この菩提と涅槃の深まりは、全仏教者のなかで、お釈迦さまが一番深いのです。それで、お釈迦さまは、仏教の教主となられているのです。

また、仏教の僧と信者にも違いがあります。お釈迦さまは、ブッダガヤの菩提樹下で成道されて、自分の悟りと安心の道を得たのち、自分と同じ死の矛盾と生死の苦悩がすべての人々にあることを自覚し、すべての人々に自分が悟った人生の目的と生死の苦悩からの解脱の道を伝えねばならないと、大きな願いをたてられました。そこで、自分一人で伝道するのではすべての人々に伝道できないと考え、始めに自分と共に、伝道する者を養成されました。この伝道者が仏教の僧であります。僧侶も人間ですから仏教の課題をもっており、まず、自分の悟りと安心をもとめなければなりません。その上、一人でも多くの人々に伝道をするのが、僧侶の仕事であります。一方、在家の信者は自分の悟りと安心を得ることは僧侶と同じですが、家業に専念し、伝道の仕事はありません。
サンガ)は、出家の僧と在家の僧と信者よりなりたってきました。三者は、同じところと異なるとこ
ろがあることを、正しく自覚しなくてはなりません。(駒澤大学名誉教授)

 【12月の法話】「有余の成仏と無余の成仏」         12月1日号
              常真寺 住職【緑蔭禅の集い主幹】  皆川 廣義
 仏教を開かれたお釈迦さまは、生まれて七日目に生母を亡くされましたが、 平和な時代王家に生まれて物心両面にめぐまれた環境のなかで成長され、強健な身体と深い智慧、それに穏やかな心をもった成人となり、ヤショダラーと結婚し、

長男ラーフラも生まれて、幸せな生活をされていました。仏教を開かれたお釈迦さまは、生まれて七日目に生母を亡くされましたが、平和な時代に王家に生まれて物心両面にめぐまれた環境のなかで成長され、強健な身体と深い智慧、それに穏やかな心をもった成人となり、ヤショダラーと結婚し、長男ラーラも生まれて、幸せな生活をされていました。
ところが、お釈迦さまは、二十代後半になり、隣人の老病死の苦しみを見て、自らの
死を自覚し、死のもつ矛盾を知り、死の恐怖をもたれることになりました。

 お釈迦さまは、自分はなんのために生まれ、生き、そして最後に苦しんで死んでゆくのか、自分の生れてきた目的はなんなのか。また、どうしたらこの死苦を乗り越えて、安心とと生きがいを得られのかと、多くの宗教者について学ばれました。しかし、この学びによって、人生の目的と死苦を解脱して安心への道を得ることができませんでした。

 そこで、お釈迦さまは、自ら国王への道を捨て沙門という宗教者になって、この課題を解決することになりました。幸いにも六年の求道の後に、ブッダガヤの菩提樹下の坐禅行中に、人生の目的を悟り、死苦からの解脱の道を発見することができました。

 お釈迦さまは、そこで人生の目的を悟り、安心を得、仏さま(正覚者)になられたのです。
 お釈迦さまは、人生の目的を自覚できないのは、無明が原因であり、死苦の原因は煩悩であると明らめられ、無明を滅する菩提行の実践により、悟りと安心が得られと発見されました。ただ、この無明と煩悩は生きるために必要なものでもあり、人はすべてを滅しては生きられません。

 お釈迦さまは、生きるために必要な無明と煩悩は、必要悪として認め、その他の無明と煩悩は菩提行と涅槃行の実践により、できるだけ捨てて、悟りと安心を得るよう説示されています。また、すべての人が最後に、自ら死して、すべての無明と煩悩を捨てていると説示されています。つまり、仏教の悟りと安心は、迷いと苦が生まれたときごとに、菩提と涅槃行(六度)を実践して得るもので、一回だけの成道で完全な悟りと安心が成就するものではありません。

 仏教では、生きているときを「有余」といいます。生きているとき仏さまになること、したがって有余の成仏は完全な成仏ではありません。また、仏教では、死後のことを「無余」といいます。死は自らの無明と煩悩をすべて捨てることで、完全な成仏で、無余の成仏は、すべての仏教者において、同じ完全な成仏であります。したがって、亡くなって葬儀をして無余の成仏をした仏は、迷ったり、苦悩することはありません。

 ただ、お釈迦さまは、自分の死後、人々が仏法に逢うことができず苦悩されことを心配され、四十五年の伝道をされました。つまり、無余の仏さまは、自分の迷いや苦悩はありませんが、残した人々のことを心配し、悩んでおられるのです。私たちは、無余の仏さまに、心配をかけてはなりません。(駒澤大学名誉教授)
  


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