Ryokuyin Zen Sangha

法話&Photo Gallery 【喫茶去】
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平成22年の法話
【1月の法話】 「人生の目的を自覚する」 【8月の法話】 「お盆の意味について」
【2月の法話】 「死と涅槃について」 【8月(お盆号)の法話】 「お盆の意味二」
【3月の法話】 「檀家の意味」 【9月の法話】 「有余のほとけと無余のほとけ」
【3月(春彼岸号)の法話】 「此岸と彼岸について」 【9月(秋彼岸号)の法話】 「楽しい家族団欒」
【4月の法話】 「お釈迦さまの誕生」 【10月の法話】 「先祖と先祖仏」
【5月の法話】 「仏教の葬儀について」 【11月の法話】 「仏教の教え 四諦説」
【6月の法話】 「成仏 ほとけさまになること」 【12月の法話】 「仏教の教え 三帰依説」
【7月の法話】 「仏さまとの対話」

 
【1月の法話】 「人生の目的を自覚する」    1月1日
         

常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


新年頭にあたり、改めて自分が何のために生まれ、生き、そして死して行くのかという「人生の目的」を、お釈迦さまの教えに学び、自覚しましょう。

お釈迦さまは、平和な時代に物心両面とも恵まれた環境の中で育ち、二十代の後半までは、幸せな生活をしていました。しかし、二十代の後半になって、自分の身近にいる人々の老いの苦しみ、病の苦痛、そして死に行く人々の恐怖を見ていて、幸せな自分にもこのような一大事があることを悟られました。

すべての人に人生の最後、老いと病と死という一大事があり、身心に深い苦痛をもたらします。

お釈迦さまは、生きているということと、死ぬということが一如(いちにょ)に自覚されたのです。凡夫としての私たちは、生があって、ずっとあとに老病死がおとずれると考えて、のんきに人生を生きています。お釈迦さまも、私たち凡夫と同じように二十代の後半まではこのように生きてこられました。

お釈迦さまは、この自分の死が投げかけた死の一大事の中から、二つの課題に取り組むことになります。一つは、自分は一生懸命に生きているのに、その反面なぜ自らを壊して老いをつくり、死をつくっているのか。自分は何のために生まれ、生き、そして死して行くのか。自分の人生の目的は何なのかということです。二つ目は、どうしたら老いや病や死の苦しみを解脱して、安心を得ることができるかということでした。つまり、人生の目的を悟ることと、生死の苦悩を解脱して、安心と生きがいをどうしたら得ることができるのかということであります。

この二つの課題は、現代でも大半の人々が未解決で、持っている一大事であります。しかし、それを不幸なことに自覚していないのです。それを私たちは、お釈迦さまの教えにより自覚させていただいたのです。

お釈迦さまは国王への道を捨てて、二十九歳のとき沙門(しゃもん)という宗教者になって、この課題の解決を求められます。幸いにも、六年の厳しい修行の後に、三十五歳のときブッダガヤの菩提樹下の坐禅行中に悟りを得、解決されました。

お釈迦さまの成道は、人間レベルの自分では解決できず、生命のレベルの自分によって解決しました。それは、自分は人間(心をもった動物)であり、生物である。生物は、生命の乗物である。つまり、自分は生命なる存在であるという自分の真実を悟ります。

そして、生命なる自分は、時間的にこの地球に生まれてより、親より子へと伝承されたものであり、また子孫へ永遠に生きようとしているものであります。仏教ではこの生命を「三世の生命」と呼んでいます。また、空間的にこの三世の生命は、地球上に存在するすべての生物をつくりだしている「十方の生命」でもあります。人間だけでなくすべての生物は、生命の乗物であり、永遠に生きようとする三世の生命であり、すべての生物が「同事」であるという十方の生命でもあるのです。

お釈迦さまは、この自分の三世十方の生命の実相の中に、人生の目的と生死の苦悩からの解脱道を発見し、悟りと安心を得られました。私たちも自分の三世十方の生命の実相の中に、お釈迦さまの導きによって、悟りと安心をつくりだしてゆきましょう。



(駒澤大学名誉教授)






常真寺 平成22年1月の

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【2月の法話】 「死と涅槃(ねはん)について」    2月1日号
         
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


お釈迦さまは伝道の旅のなか、二月十五日にクシナガラのサーラの林において、八十歳で亡くなられました。この日を、私たち仏教徒は「釈尊涅槃会(しゃくそんねはんえ)」として、お釈迦さまの生涯と教えを偲び報恩讃仏の法要を行います。

お釈迦さまの教えでは、死と涅槃は別なるもので、区別して学ばねばなりません。死は、人間や生物が亡くなることで、心をもった人間が共通に知っていることです。ただ心をもった動物である人間でも、自分の死は知っていますが、絶対に体験はできなません。しかし涅槃は、お釈迦さまが説き示めされたもので、人間の生死の苦悩が、仏行の実践によりなくなり、安心を得たことです。

お釈迦さまは、二十代の後半までは幸せな生活をしていましたが、隣人の老病死の苦悩を見て、このようなことが、自分にも間もなくおそってくると悟られ、深い苦悩に打ちひしがれました。この苦悩を解決するために、釈迦国王への道を捨てて、沙門という最下端の厳しい生活をする宗教者になり、求道されました。

お釈迦さまの求道の課題は、自分は死にたくないと思って一生懸命に生きているのに、一方でそれを壊して死をつくっているという矛盾を解決し、人生の目的を明らめることと、生死の苦悩を解脱して安心をうる道を得ることでした。幸いにも六年の求道の後、ブッダガヤの菩提樹下での坐禅中にこの求道の課題を解決され、人生の目的を悟り、生死の苦悩からの解脱道を発見されました。それは、人間レベルでは解決できず、生物、生命のレベルの自分のありようの中に課題の解決が発見されたのです。自分の「三世十方(さんぜじっぽう)生命(いのち)」のありようの中に、人生の目的と生死の苦悩からの解脱道を発見されたのでした。また、それは人間の現在と自分の立場よから一方的に考える視点より、三世十方の視点から見ることによって悟られた自分の真実のありようでした。

お釈迦さまが、菩提樹下で悟られたこの智慧のことを「菩提(ぼだい)」といいます。お釈迦さまは、菩提の智慧により、自分の真実体は三世十方の生命であると知り、この三世十方の生命のありようの中に人生の目的と、生死の苦悩からの解脱道を発見されたのでした。この菩提の智慧は、生死の苦悩の原因は、自分の真実を知らない無知(無明(むみょう))と、それがつくり出す自中心的な考え(煩悩)によって生まれると自覚しました。

この無明を滅して得た智慧が「菩提」であり、煩悩を滅して得た安心が「涅槃」であります。この菩提と涅槃を得る道として説き示されたのが「六波羅蜜(六度)」の教えです。お釈迦さまは、菩提樹下の成道後、サーラの林で亡くなるまで、四十五年間の伝道中、この菩提行と涅槃行の実践をして、涅槃(安心)を得られました。この涅槃を「有余涅槃(うよねはん)」と呼び、まだ菩提と涅槃行を怠ると苦悩が生まれることのある安心です。お釈迦さまは、サーラの林で自ら亡くなり、自ら自分の煩悩を全て滅尽して完全な涅槃に入られました。この死後の涅槃を「無余涅槃(むよねはん)」と呼びます。有余とは、生命に余りがあるという意味で、生きているということで、無余とは、生命に余りがない、つまり死んだということです。有余涅槃は、未完の涅槃であり、無余涅槃は完全な涅槃です。

私たちの求道は、お釈迦さまの有余涅槃と同じ安心を行じることです。そして、私たちも自らの死によってお釈迦さまの教えに基づき、葬儀をしてお釈迦様より仏名をいただき、お釈迦さまのように完全な涅槃に入ることができるのです。

人間が死んだだけでは、仏さまにはなれないのです。生きているときに仏教者として、仏さまを信仰し、菩提と涅槃行を実践して、有余涅槃を得ていた人が亡くなって、お釈迦さまの教えにより葬儀をして完全な無余涅槃に入り、お釈迦さまと同じ完全な仏さまになるのです。



(駒澤大学名誉教授)






常真寺 平成22年2月の

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【3月の法話】 「檀家の意味」    3月1日号
         
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


仏教では、自分の家族が亡くなると菩提寺の住職により葬儀をし、お釈迦さまより仏さまの名前をいただき、寺に先祖仏としてまつられます。そして、自分の先祖仏を菩提寺にまつってもらっている家を、檀家といいます。檀家は、仏教の信仰をもつ家族の集まりであります。この仏教信仰者の集まりのことを、仏教では僧伽(さんが)と呼んでいます。

菩提寺は本尊のお釈迦さまと、仏法を伝えてきた祖師仏と、先祖仏の三つの仏さまをおまつりして、常に御供養申し上げています。また、菩提寺は、それらの仏さまたちの教えを学び、信仰し、人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して、安心と生きがいをつくる道場であります。

檀家は、正しくは、「檀那(ダーナ)をする人の家」という意味です。檀那とはインドの言葉で、布施ということです。布施行を実践している人の家が、檀家であります。

仏教で最初に檀家となったのは、お釈迦さまが伝道をはじめてすぐ、在家信者となったベナレスの長者ヤサの家であります。

布施行は、仏教の行である六度(六波羅蜜)の中の一つの行です。六度は、菩提(悟り)行と涅槃(安心)行の二つに分かれ、悟りの行として、①生活を正す(持戒)②教えをよく聞く(精進)③学んだものを省察する(禅定)④自分の智としたものをサンガの中で語り、対話によ普遍的な智慧とする(智慧)の四行です。安心の行は、①苦に堪えることにより煩悩を滅して安心を得る(忍辱)、②自分の大切なものを他者にもらっていただくことにより、煩悩を滅して安心を得る(布施)の二行です。忍辱は、一人で行じられるもので、布施は社会の中で行じるものであります。

仏教では、自分の安心を得るために、苦の原因である煩悩を滅する行として、布施をするのです。そして、布施を受けた人は、それが助けになります。つまり、仏教の布施行は、一行の中に自分のため(自利)と、他者のため(利他)の二つの行が実践される営みなのです。布施は自分の安心を得ると同時に、人々を助けるすぐれた行なのです。このような仏教の布施を実践している人々の家を「檀家」と呼ぶのです。

現在の菩提寺と檀家の関係は、檀家が菩提寺の仏さまへの布施行をすることにより、自分の安心を得「(自利)、それが同時に仏さまをまつる菩提寺を維持してゆくことになっています(利他)。また、その仏さまをまつる菩提寺を道場として、檀家の皆様は、仏さまの教えを学び、信仰することにより、人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して、安心と生きがいをつくり出しているのです。檀家の皆様の安心と生きがいが、家を繁栄させ、子孫を豊かに育むことになり、このような家の集まりにより、社会も明るく豊かになっていくのです。

寺は、仏教を信じ、学び、行じる多くの人々の修行者グループ「僧伽(さんが)」であります。そして、この寺サンガの人々は、各家庭のサンガのメンバーとなり、家サンガをつくることになります。寺サンガとその傘下の各檀家の家サンガのメンバーが、仏教の信仰実践により、悟りと安心を得て幸せになることが、お釈迦さまの願いであります。



(駒澤大学名誉教授)




常真寺 平成22年3月の

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【3月(春彼岸号)の法話】 「此岸(しがん)彼岸(ひがん)について」    3月21日号
         
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


お釈迦さまは、人間の生きているところを此岸と呼び、楽しみと苦しみのある世界であると説き示しています。でも此岸では、死の矛盾や苦しみがあり、真の安心が得られません。お釈迦さまは、この此岸の死の矛盾を明らめて、人生の目的を悟り、死の苦しみを乗り越えて、安心と生きがいを得た世界を彼岸と説き示しています。

お釈迦さまは、二十代後半になるまでは幸せな生活をしていましたが、二十九歳のとき隣人の老病死の苦しみから、自分にもそのような苦しみがあることを悟られました。そして、自分の死を色々考える中で、死にたくないと一生懸命にいきている自分自身が一方で、老いをつくり、病をつくり、死をつくっていることに気付きました。この死の矛盾を明らめて、人生の目的を得たいと願われました。また、自分の必ずおとずれる老病死の苦悩を解脱して、安心を得たいと願われました。お釈迦さまは、この人生の目的を悟ることと死苦を解脱して安心を得る道を求めて、国王への道を捨て、沙門という宗教者になられました。六年の求道の後に、お釈迦さまは、ブッダガヤの菩提樹下での坐禅中に悟りを得、悟りと安心への道を発見されました。

この死の矛盾を明らめて人生の目的を悟り、死苦から解脱して、安心を得る道を発見した人をほとけさま(仏・正覚者)と呼びます。そして、このほとけさまの世界を彼岸と呼んでいるのです。

私たちは、菩提樹下で悟りを得る前のお釈迦さまと同じように、死の矛盾をもち、人生の目的が分からないで、深い死苦からの解脱の道をもたず、苦しんでいる此岸に今生きています。ですから、どうしてもお釈迦さまの教えを学び、仏行を実践して、人生の目的を悟り、死苦を解脱して、安心と生きがいを得る彼岸に行かねばなりません。

お釈迦さまは、此岸より彼岸に行く道を(一)四諦(したい)の教え(二)三帰依(さんきえ)の教え(三)六波羅蜜(ろくはらみつ)の教えの三つの教えで説き示しています。私たち仏教者は、この三つのお釈迦さまの説き示された根本教理をどうしても、学び、信じ、実践せねばなりません。

(一)四諦の教えは、①全ての人に死苦の一大事がある(苦諦)。②死苦の原因は、自分の真実(三世十方の生命)を知らない無明と、それより生まれる煩悩である(集諦)。③死苦の原因である無明を滅し安心を得るために菩提(ぼだい)(正覚・持戒、精進、禅定、智慧)行を実践する(道諦)。④同じく死苦の原因である煩悩を滅して安心を得るために涅槃(ねはん)(安心・忍辱、布施)行を実践する(滅諦)。このように四諦の教えは、苦、集、道、滅のキーワードで、苦しみの世界より安らぎの世界への道を説き示したものです。

(二)三帰依の教えは、①仏さま(釈尊仏、祖師仏、先祖仏)と②その教えと、③仏と法を信じ、実践する仏教者の修行集団(僧伽(さんが))に帰依し信仰することにより、悟りと安心を得る教えです。

(三)六波羅蜜(六度)の教えは、悟りと安心の行とからなり、悟りの行として、①生活を正し(持戒)、②教えを一生懸命に聞き(聞法精進)、③学んだものを自分の智とし(禅定)、④自分の智としたものを僧伽のメンバーに語り、メンバーに認められた普遍智とする(智慧)の四つの行です(菩提行)。次に、安心の行としては、①死苦の原因である煩悩を捨てるために苦しみに耐える(忍辱)と、同じく煩悩を捨てるために自分の大切なものを他者にもらっていただく(布施)との二つの行です(涅槃行)。



(駒澤大学名誉教授)






常真寺 平成22年3月の

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【4月の法話】 「お釈迦さまの誕生    4月1日号
         
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


仏教を開かれたお釈迦さまは、今から約二千五百年前に、インドのルンビニーで生まれました。この日を日本の仏教者は、「花まつり」としてお祝いして来ました。私も子供のころ、母と妹の三人で境内の花をつんで、本堂に花御堂(はなみどう)をつくり、誕生仏をおまつりし、供養した美しい思い出があります。

釈尊降誕会花まつりは、仏教者にとって大恩教主への感謝の法要であり、また仏教を学び、信仰することにより、自分の悟りと安心をつくる修行の場であります。

お釈迦さまの国カピラヴァストゥは、ヒマラヤ山脈の中央にあるダウラギリ山の南麓の大平野にありました。平野には北のヒマラヤより沢山の川が南に流れており、豊かな田園地帯です。お釈迦さまの国は、日本と同じように、米をつくることによって栄えたモンゴロイド(ネパール人)の国でした。

たぶん数千年前に、中国の長江中流域で米づくりを発見したモンゴロイドが、西に行ったのがお釈迦さまの国の人々であり、東へ来たのが私たち日本人であったと思います。今の中国人(漢民族)は、この米づくりをしていたモンゴロイドを東西に追い払って、住み着いた人々であります。私たち日本人や釈迦国の人々の方が、中国における先住民であったのです。

お釈迦さまは、二十代後半までは平和な時代に幸せな生活をされていました。しかし、二十九歳のとき、死にたくない自分がどうして死をつくるのかという死の矛盾に気付き、また死の苦悩の解脱を求めて、国王への道を捨て、樹下石上、三衣一鉢のきびしい修行をする沙門という宗教者になりました。そして、この問題解決のため、求道をはじめられたのです。幸いにも、六年の求道の後に、ブッダガヤの菩提樹下の坐禅中に、その問題を解決し、悟りと安心への道を発見されました。

成道されたお釈迦さまは、自分の取り組んだ二つの問題は、すべての人々にあり、すべての人々に自分の発見した人生の目的と、生死の苦悩からの解脱道を伝えて、悟りと安心を与えて行かねばならないと自覚されました。それより、八十歳で亡くなるまで、四十五年間、沙門の生活をしながら、説法を続けられました。お釈迦さまは、初期の伝道では、自分と共に人々に説法する伝道者の養成をし、数千人の伝道者(僧侶)を育て、全員で伝道を展開されました。お釈迦さまの取り組んだ問題は、すべての人々にあり、お釈迦さまは善人にも悪人にも、賢い人にもおろかな人にも、お金持ちの人にもお金のない人にも差別なく説法し、悟りと安心を与えました。間もなく、当時のインドすべての人々がお釈迦さまの教えを聞き、信仰し、仏道を行じて、悟りと安心を得るようになりました。しかし、お釈迦さまはこれで安心し伝道を中止することをせず、インド以外の国々への伝道や、自分が亡くなった後に、人間のいる限り永遠に伝道が展開されるように、八十歳で死ぬまで努力されました。

このお釈迦さまの四十五年の伝道のおかげで、仏教はインド以外の国々へ広まり、また時代をこえて広まり、仏教は今日の世界宗教となりました。

私たちは、お釈迦さまの仏教を世界の宗教にする努力により、お釈迦さまの教えに会い、信仰し、仏行を実践して、悟りと安心をいただけるのです。仏教のすべては、このお釈迦さまのルンビニーにおける、四月八日の誕生により生まれたのです。  



(駒澤大学名誉教授)






常真寺 平成22年4月の

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【5月の法話】 「仏教の葬儀について    5月1日号
         
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


仏教者は身近な人が死ぬと、通夜の儀式をして人間としての最後の別れをします。次に、お釈迦さまの教えに基づいて葬儀をし、亡き人に仏さまの名(法名)をいただき仏さまとします。残された者は生涯、仏さまとして礼拝供養をいたします。なお、遺体はお釈迦さまがなされたように火葬にして、残った骨を仏さまとなった方の象徴とし、墓の石塔の下に壺に入れておまつりします。

現生人類は、約二十万年前に生まれましたが、始めより、人が死んで腐敗していくのをしのびなく、土中に埋葬していました。色々と世話になった人の腐敗する遺体をそのままにしておけず、埋葬して花などをたむけて供養したのです。これが葬儀の始まりで、心をもった人間の尊い行動であります。

このような葬儀を最近宗教学者島田裕巳氏が、『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)という本を書き、否定しています。

そこで、私たち仏教者にとって葬儀が、いかに大切なのかをお話しいたします。

私たちにとって、死は不条理です。誰もが生きていたいのに、どうして自ら死をつくって死んで行くのでしょうか。どうしたら、この死の矛盾を解決できるのでしょうか。私たちは何のために生まれ、生き、死んでゆくのでしょうか。人生の目的は、何なのでしょうか。また、どうすればこの死の恐怖、苦悩を解脱して安心と生きがいを得られることができるのでしょうか。亡くなった人は、このような人生の目的と生死の苦悩からの解脱を自分の死を通して、残された私たちに問いかけているのです。

仏教を開かれたお釈迦さまは、この人生の目的と生死の苦悩からの解脱の道を教えています。私たちは、亡くなった人との別離の悲しみや自分自身の死の矛盾、生死の苦悩からの解脱を求めて、仏教の教えに基づく葬儀をしています。そこで仏教者は、お釈迦さまの教えにより亡くなった人を、先祖よりいただいた生命と財産文化を私たちに一生懸命に伝承して生まれてきた人生の目的を達成され、また子孫に生きる場をゆずるために自ら死して行かれたのであると学んでいます。お釈迦さまはこのような亡き人を、生前における私たちへの思いやりと、自分を無(死)にしてすべてを子孫にゆずる慈悲をもって、仏であると教えているのです。私たち僧侶は、お釈迦さまに代わって、このような教えに基づき亡き人に葬儀をし、仏さまの名前(法名)を授けさせていただいているのです。

仏教者は葬儀をして仏さまとなった方を、菩提寺と各家の仏壇に法名を記した位牌としてまつります。また、遺骨を仏舎利としてお墓にまつります。つまり、亡き人は仏さまとして、菩提寺と仏壇と墓の三か所にまつられています。そして私たちは、仏さまへの供養礼拝を通して、死別の悲しみや人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して安心をいただいているのです。

仏教では、それらの三か所にまつられた仏さまを外なる仏さまとして信仰します。そして、この信仰を通して自分の信心の中に外なる仏さまを内在化し、自分の信心の中に共生していただき、この共生している内なる仏さまを信仰するのです。また、外なる仏と内なる仏を相互に信仰することにより、信心を深め、人生の目的を悟り、生死の苦悩から解脱して、安心と生きがいを授かることになるのです。



(駒澤大学名誉教授)






常真寺 平成22年5月の

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【6月の法話】 「成仏 ほとけさまになること    6月1日号
         
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


成仏(ほとけさまになる)という言葉は、色々な意味をもっていますが、大きく分けて二つの意味があります。

一つは、仏教を学んで仏教のサンガに入り、仏法を信じてその教えを実践し、人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して安心と生きがいを得ることをほとけさまになったといいます。

仏・ほとけは、インドの言葉で「ブッダ」という言葉の訳で、自分の真実のありようを悟り、安心を得た人という意味です。

仏教を開かれたお釈迦さまは、平和で豊かな生活をしていました。しかし、二十代後半に隣人の老病死苦より、自分もまもなくあのような一大事に直面することを悟り、深い苦悩に打ちひしがれました。

お釈迦さまは、死にたくないと一生懸命に生きている自分が一方で死をつくっている不条理を明らめて、人生の目的を悟り、生死の苦悩から解脱して安心を得ようと、二十九歳のとき国王への道を捨てました。そして、沙門という厳しい修行をする宗教者になり、この二つの課題の解決を求められました。お釈迦さまは、幸いにも六年の修行の後に、ブッダガヤの菩提樹下の坐禅中に自分が「三世十方の生命」なることを悟り、この生命の実相の中に人生の目的を悟り、生死の苦悩からの解脱の道を発見されたのです。これによりお釈迦さまは、最初のほとけさま(成仏)になられたのです。

お釈迦さまは成道されたとき、自分と同じ死の不条理や生死の苦悩をすべての人々にあることを自覚されました。そしてすべての人々に、自分が成道したものを伝道せねばならないと決意し、願われました。そこで三十五歳で成道してから、八十歳にクシナガラのサーラの林で亡くなるまで、四十五年間沙門として最下端の厳しい生活をしながら伝道をされ、願いを達成されました。

お釈迦さまは、私たちが悟りと安心を得て仏さまになる道を①四諦②三帰依③六度の三つの根本教理として説き示され、すべての人々がほとけさまになる道を開かれました。

二つめは、仏教者が亡くなりますとお釈迦さまの教えにもとづき、通夜の儀式をして人としての最後の別れをします。次に葬儀をしてお釈迦さまより仏さまの名前(法名)をいただいて、完全なほとけとなり菩提寺と仏壇とお墓の三か所に法名を記してまつられます。この亡くなって仏教の葬儀をし、完全に苦悩を滅尽して完全なほとけになったことをほとけさまになるというのです。

お釈迦さまは、人だけでなくすべての生物が生命を永遠に伝承するために、生まれ生き、次の世代に生きる場をゆずるために死んでいると説き示しています。死は、自分を無にして子孫に生きる場をゆずり、生命を永遠に伝承する尊い行いであります。この尊い行いの完成である死により、完全なほとけさまになるのです。

仏教では、ほとけさまになることは生きているときに仏さまになる(有余のほとけ)という意味と、亡くなって葬儀をして仏さまになる(無余のほとけ)という二つの意味があるのです。私たち仏教者は、この二つの仏さまになるのです。



(駒澤大学名誉教授)






常真寺 平成22年6月の

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【7月の法話】 「仏さまとの対話    7月1日号
         
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


最初に仏さまになられた方は、お釈迦さまです。お釈迦さまは、二十代の後半に隣人の老病死の苦悩より、自分の死を自覚し、苦悩に打ちひしがれました。その苦しみの中から、「死のもっている矛盾を明らめて人生の目的を悟りたい」、「生死の苦悩を解脱して安心を得たい」と願われて宗教者になりました。六年の求道の後に、菩提樹下の坐禅行の中で自分の真実が三世十方の生命であることを悟り、生命の実相の中に人生の目的と生死の苦悩からの解脱道を発見されました。つまり、お釈迦さまは悟りと安心を得て仏さまになられたのです。

お釈迦さまは、成道後八十歳で亡くなられるまで四十五年間、人々にこの悟りと安心の道を説き示されました。また、四十五年の伝道を通して自分の亡くなった後も、多くの人々にこの教えが伝えられるような努力をされました。この努力により仏教という宗教が生まれ、私たちまで仏教が届けられているのです。

お釈迦さまが八十歳でクシナガラのサーラの林で亡くなられて、仏教者たちはお釈迦さまから直接教えを聞くことができなくなり、深い悲しみに打ちひしがれました。仏教者はこの深い悲しみの中より、生前のお釈迦さまの教えにもとづき、お釈迦さまの生涯と教えを信心の中に内在化し、仏さまとして再生します。そして供養としての学びを通して、信心の中で生きているお釈迦さまと共に生きる信仰をつくり出しました。この内なるお釈迦さまと祈りを通しての対話の中に、仏の功徳を共有させていただく不思議を授かり、この仏徳共有により自分の悟りと安心を授かることになるのです。

仏教者達は、お釈迦さまが亡くなりもう逢って教えを聞くことのできなくなったので、唯一残された仏舎利をお釈迦さまの象徴として塔を建ててまつって供養をし、信仰しました。この外にまつられたお釈迦さまを信仰することを通し、自分の信心の中に内なるお釈迦さまを内在化して信仰しました。この外なる仏を信仰することにより内なる仏の信仰を豊かにし、また内なる仏への信仰により外なる仏への信仰を豊かにします。この外の仏と内の仏との相互円環的な信仰の深まりの中に、仏さまとの共生をつくりだし、仏さまの功徳を共有できるのです。この仏さまの功徳の共有により、自分の悟りと安心が授かることができたのです。

お釈迦さま自身も、クシナガラのサーラの林の中で人間として生涯を終ったのですが、そのことを通して、多くの仏教者の信心の中に再生し、生き続ける道をつくり出しました。つまり久遠の仏となり、すべての人々へ教えを届ける願いを完成しているのです。

また、私たち仏教者も、お釈迦さまの生涯や教えを学び、信仰し、子孫に仏教信仰が伝わることにより、子孫の生命と信心の中に、仏として再生して生き続け、久遠の仏となることができるのです。そして亡くなった後も、まだ生まれていない多くの子孫たちとも、仏として信仰を通して対話して行くことになるのです。このような素晴らしい永遠の営みが、仏教の学び、信仰の中につくられているのです。

仏教者(仏)は、菩提寺と仏壇と石塔(墓)に永遠に生き続けているのです。



(駒澤大学名誉教授)






常真寺 平成22年7月の

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【8月の法話】 「お盆の意味について    8月1日号
         
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


仏教におけるお盆の行事は、『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』という経典に説き示された教えにより生まれました。

お釈迦さまの十大弟子の一人に神通第一とされた目連というお坊さまがいます。目連は、ナーランダの裕福なバラモンの家に生まれました。何不自由のない幸せな生活をしていましたが、お釈迦さまの教えを聞いて、家の人の反対を押し切って弟子になり修行を始めました。

お釈迦さま達僧侶は、家に住むことがなく樹下石上を住まいとし、三つの衣と一鉢しかもたないという質素な生活をしていまいた。また、食事は行乞(ぎょうこつ)にたよる大変厳しい修行でした。目連のお母さんは、お坊さまになった我が子を今日は食事をいただけただろうか、病気になりはしないかなどと色々心配をし、夜も眠れなくなっていました。そして、とうとう心の病気になってしまいました。目連は、お母さんが自分のことを心配されて病気になったことを人のうわさで知り、お釈迦さまにどうしたらその病を治すことができるのか相談しました。

お釈迦さまは、夏の修行が修了する七月十五日の朝、お母さんに寺まで来ていただき、修行僧全員に食べ物の供養をしていただくとお母さんの病は治り、安心が得られると目連に説き示されました。

目連はお母さんにそのようにお話しして、供養をしていただきました。目連のお母さんは、御供養をしながらこんなに多くのお坊さんが一生懸命に修行していたことを知り、自分の子だけを心配していた自分がはずかしくなりました。そして、この反省が自然に病気を治し、心が安らかになられました。

お釈迦さまは、目連のお母さんに自分の子だけを愛する心より生まれる苦悩を、多くの人々を愛する心をもつことにより解脱させようとしました。ですから目連のお母さんは、多くの僧たちへの供養を通してそれを自覚し、安心を得られたのです。

お盆は、インドの「ウランバナ」という言葉の音訳です。「ウランバナ」という言葉は、「さかさにつるされた苦しみ」という意味で深い苦悩のことです。お釈迦さまは、目連のお母さんのウランバナの深い苦悩をお坊さんへの供養を通して、自分の子だけを愛する小さな愛より、多くの子を愛する大きな愛を自覚させることにより救われたのです。

お盆の行事は、自分の先祖仏を常に御供養している仏教者が、年に一度、自分たちの先祖仏だけでなく無縁になって供養していただけない先祖仏や、すべての生物の霊を供養することにより、自分の安心もさずかる大きな愛と安らぎの祭りなのです。この無縁仏や、三界の万霊をお迎いするために迎え火を焚き、送り火を焚くのです。

仏教では身近な人が亡くなりますと、お釈迦さまの教えにもとづき葬儀をして、仏さまとなっていただきます。そして、その仏さまを菩提寺と仏壇とお墓の三か所に仏名を記してまつり、朝夕御供養しています。

この外なる三か所の仏さまを信仰することにより、自分の信心の中に仏さまを内在化して内なる仏さまとして信仰します。この外なる仏さまと内なる仏さまの信仰により、私たちは仏さまと共に生きる世界をつくり、仏共生となります。私たちは、この仏共生の中に仏さまの功徳を共有させていただく不思議が生まれ、智慧や安らぎや生きがいをさずかるのです。



(駒澤大学名誉教授)




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【8月(お盆号)の法話】 「お盆の意味二    8月13日号
         
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


お盆は「ウランバナ」というインドの言葉で、逆さまにつるされた苦しみという意味です。

目蓮さんのお母さんは、可愛い息子のきびしい修行を心配されて、深いウランバナという苦しみに打ちひしがれることになったのです。この母の苦しみを知った目蓮さんは心をいためて、お釈迦さまに母の苦しみを救う道をお釈迦さまに相談されました。

お釈迦さまは、「僧たちの夏の修行が修了する七月十五日の朝、お母さまに全ての僧たちに食事の供養をしていただければ、苦しみは癒されるであろう。」と説き示されました。

目蓮さんは、お母さんにお釈迦さまの教えを伝えました。お母さんはお釈迦さまの教え通りに、その日の朝自分が作ったおいしい食事を多くの僧たちへ自ら供養されました。そしてお母さんは、供養が終了したときに苦しみがなくなっていることを自覚されたのです。

お釈迦さまは目蓮さんのお母さんに僧たちへの供養を通して、自分の子だけでなくこんなに多くの僧たちが一生懸命修行をしていたことを知らせました。また、目蓮さんのお母さんは多くの僧たちのお母さんが、我が子への心配をこらえておられていたことを知り、自分が恥ずかしくなり自分の子だけを愛するという小さな愛が、供養を通して多くの子への大きな愛に変わりました。この大きな愛が目蓮さんのお母さんの苦しみを癒してくれたのです。

私たちには我が子を愛するという小さな愛があり、この愛が子供どもを健やかに育てあげているのです。しかし、もう一つ我が子だけでなく全ての子を愛する大きな愛もないと、小さな愛だけでは苦しみを生むことになるのです。お釈迦さまは、この小さな愛と大きな愛の二つがなければならないと、『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』の中で説き示されているのです。

最近のテレビのニュースで、お母さんが自分の遊びのため二人の実の子をアパートに鍵をかけて押し込めて、飢死(うえじに)にさせたと報じていました。これは自分の欲望のため、可愛い子どもを愛するという小さな愛すら失ってしまった悲しい事件であるように思います。

お盆の行事は、このように人間の自分だけの愛、小さな愛と大きな愛などを学ぶ場であるのです。仏教徒は身近な人がなくなると、宗教をもたない人のように全てそれで終わりとしないで、お釈迦さまの教えにもとづいて葬儀をします。その葬儀の中でお釈迦さまより仏さまの名前(法名)をいただいて、仏さまになっていただきます。

そして、仏さまを菩提寺と仏壇と墓の三か所に法名を記してまつり、信仰し、祈りを通して生前と同じように対話を生涯続けてゆくのです。また年に一度、お盆に自分の先祖だけでなく無縁の仏、三界の万霊を共にご供養し、小さな愛より大きな愛を実践し、苦しみを乗りこえて安心を得ています。

さらに信仰することは外なる仏さまを信心の中に内在化し、心の中にいだいていることでもあります。外なる仏の供養を通して内なる仏をいだき、自分と仏が信心の中で共に生きる世界をつくり出しているのです。この仏共生の世界が、仏さまと自分がものごとを共に有する仏功徳共有をつくり出し、私たちの悟りと安心をつくり出してくれるのです。 



(駒澤大学名誉教授)






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【9月の法話】 「有余(うよ)のほとけと無余(むよ)のほとけ」    9月1日号
         
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


仏教に「有余」と「無余」という言葉があります。有余というのは、自分の生命(いのち)にまだ余りがあるという意味で、生きているうちのことです。一方、無余というのは自分の生命の余りが無くなったという意味で、死んだ後のことであります。

つまり、有余は自分が生きている時、無余は死んだ後のことになります。自分の生きている時、死んだ後のことを有余と無余に分けているのです。

「有余のほとけ」というのはお釈迦さまが三十五歳の時、ブッダガヤで悟りを得て仏さまになり、八十歳の時クシナガラで亡くなるまでのことです。私たちもお釈迦さまの教えを学び、信仰し、菩提と涅槃行を実践するとほとけになります。そして、自分が亡くなるまでが有余のほとけです。

私たちは、お釈迦さまと同じように有余の迷いや苦しみを解脱するため、悟りと安心を求めてほとけになろうとしているのです。

お釈迦さまは、クシナガラで亡くなられてから多くの仏教徒の信心の中に再生して、無余のほとけさまとなられました。さらに、それより二千五百年後の私たち仏教徒の信心の中に無余のほとけさまとして、再生して生き続けています。

お釈迦さまは、三十五歳で悟りを得てから八十歳で亡くなるまで、有余のほとけさまとなられました。そして八十歳で亡くなられてから今日まで、無余のほとけさまとして仏教徒の信心の中に生き続けているのです。

私たち仏教徒もお釈迦さまの教えを学び、信仰し、仏行を実践して悟りと安心を得て、お釈迦さまと同じ有余のほとけになることができます。そして、私たちが有余のほとけとして生きている時に、家族や多くの人々にお釈迦さまの教えを伝道し、信仰していただき、仏行を実践していただくことによりその人々は悟りと安心を得てほとけさまになります。そうなりますと、その人々が私たち有余のほとけを死んだ後に葬儀をしてくれて、お釈迦さまと同じように無余のほとけとして信仰していただくことになります。

私たちが、自分の子孫が家の宗教として仏教を信仰し続けるように伝道することで、子孫の信心の中に私たちは先祖仏として再生し続け、無余のほとけとなることができるのです。つまり、永遠に子孫の生命と信心の中にほとけとして再生し続け、お釈迦さまと同じように無余のほとけになることができるのです。

お釈迦さまと仏教徒は、自分が生きている時の死の矛盾を明らめて悟りを得、生死の苦悩を解脱して安心を得るという目的を達成しようとします。しかしそれと同時に、自分と同じ課題をすべての人々がもっていることを自覚し、彼らにも伝道し、共に安心を得ていただくことにしているのです。

そして多くの人々へ仏法が伝道されると、有余のほとけだけでなく死んだ後に無余のほとけとなり、永遠に子孫の生命と信心の中に再生し続けるという不思議を達成するのです。このように仏法の自分への伝道と他者への伝道が、私たちを有余・無余のほとけにしてくれる途方もない働きを仏教徒に与えてくれているのです。 



(駒澤大学名誉教授)




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【9月(秋彼岸号)の法話】 「楽しい家族団欒(かぞくだんらん)    9月20日号
         
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


この度、私の息子の嫁の国ポーランドを息子家族、それに私たち夫婦で、日本より片道二十四時間かけて訪問してきました。嫁の実家は、大きな農園をもっていまいした。また、近くに音楽家ショパンの生家があります。

実家では嫁の御両親はもちろん兄弟達等、家族全員が集まって私たちを歓迎してくれました。実家でのパーティー、両家族全員でのバスによるワルシャワ市内遊覧、有名店での会食、古都クラクフへの観光などをさせていただきました。そこでは、嫁を通してしか言葉が通じない者同士でしたが、楽しい家族団欒を久しぶりに体験させていただきました。

ポーランドでは、昔の日本にあった大勢での楽しい家族団欒を思いださせてくれました。昔の日本は経済的には貧しく大変でしたが、皆で助け合い生活してどの家にも楽しい家族団欒がありました。それが経済が豊かになったことにより、大勢での家族団欒がなくなり、夫婦二人の生活が多くなりました。また、それもなくなり無縁社会になり、一人で死に一カ月後に白骨化して発見されるようなことが最近では起きております。

私たち日本人は貧しかったので、豊かになると幸せになると思って努力してきましたが、どうも豊かになることにより不幸になった面があると思います。

どうしてなのでしょうか。政治や経済が悪いからだと思っている方もいると思いますが、本当にそうなのでしょうか。

私は、一人一人の人間の人生観やそれをつくる家庭の崩壊などが、大きな原因になっているように思えてなりません。お釈迦さまは、そのように教えてくれているように思います。

人類は誕生以来、貧しい生活をしてきました。あるアメリカの文化人類学者は、私たち現世人類(ホモサピエンス)は飢餓に強い人類であったので、生きのびてきたのだと語っています。貧しさより豊かさへは、私たちの行動の原理なのです。それが豊かな社会になって不必要となり、どう行動してよいか解らなくなっているのが、今の私たちなのだと思います。

何のために生まれ、生き、死んでゆくのかという人生観を喪失しているのです


お釈迦さまは平和な時代に王家に生まれ、何不自由なく生活をして成長して結婚され、子どももさずかり幸せの中にありました。ところがそのような中にあって、二十代後半になり今の私たちと同じような心境になられたのです。お釈迦さまはこの問題解決を求めて宗教者となり、六年の求道を通して悟りを得ました。その中で、貧しさより豊かさへの上昇志向だけでは生きられないものを心をもった動物である人間はもっていて、豊かさより貧しさへの下降志向もなければならないと教えられています。

このお釈迦さまの教えを常真寺は、伝道活動を通して皆さんとともに学び合い、人生の目的を悟り、苦悩を解脱して安心と生きがいを得ていきたいと考えています。

そして、寺の活動を通して私たちの家庭でも、昔の日本にあったような楽しい家族団欒をつくりだしたいと思います。 



(駒澤大学名誉教授)






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【10月の法話】 「先祖と先祖仏」    10月1日号
         
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


わが国では、昔から亡くなった先祖をあつく崇拝してきました。

仏教では、このすばらしい伝統をふまえて亡くなられた方を仏さまとし、先祖仏としてあつく信仰しています。

仏教は先祖崇拝ではなく、先祖仏信仰であります。先祖崇拝は、仏教以外の宗教のものです。仏教者として先祖崇拝と先祖仏信仰の違いを正しく理解して、正しい先祖仏信仰をしてゆきましょう。

仏教は、お釈迦さまの開かれた宗教で、人は何のために生まれ、生き、死してゆくのかという人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して安心と生きがいをつくり出す道であります。お釈迦さまは、この人間のもっている二つの課題を解脱するために沙門の道を求道し、六年の修行の後に菩提樹下での悟りにより、解決されました。

菩提樹下の悟りは、自分は生物であり、生命(いのち)なる存在であるという自覚です。自分の生命は、この地球上に生まれてより自分まで生き続け、そして未来の子孫へ生き続けようとしている過去・現在・未来への流れをもつ三世の生命であります。また、生命は生物を生命の乗物としており、全生物は生命によってつくられた同根であり、同事なるものであります。つまり、空間的に生命は人間だけでなく全生物をつくり出している十方なる生命でもあります。お釈迦さまは、自分が三世十方の生命なることを悟り、この三世十方に生命のありようの中に、課題であった人生の目的と生死の苦悩からの解脱を発見されたのです。

人間は、心の中に無明があり、この生命なる存在を自覚できないのであります。また、この無明が自分中心の煩悩をつくり出し、苦悩の原因となっています。人間は、無明と煩悩を完全に滅尽しても生きてゆけません。しかし、これを野放図にすると迷い苦悩することになります。お釈迦さまは、生きているときは適度に無明と煩悩を滅して、悟りと安心をつくりなさいと説き示されています。また、すべての人は自ら死んで生きる場を子孫にゆずっていきます。人間は、ゆずり葉のように三世代そろった家で生命の伝承をし、曾孫(ひまご)が生まれる頃に祖父母は、生きる場をゆずるために死んでゆくのです。このことは、すべての人間の生命の法則で、破ることはできません。

お釈迦さまは、この生命の法則をふまえて、どんな人でも最後は自ら死して無明と煩悩を完全に滅尽し、生きる場を子孫へゆずっていると教えています。生きているときの悟りと安心は一時的なものですが、亡くなったときは、すべての無明と煩悩が無くなっており、完全な悟りと安心になるのです。

お釈迦さまは、このような教えに基づき、仏教者はすべて死によって完全なる涅槃をつくり、完全な仏となると説き示されているのです。

このお釈迦さまの教えに基づき、仏教者がなくなると葬儀をし、住職がお釈迦さまに代わって仏さまの名前(仏名)をつけ、仏さまとするのです。この仏さまが、先祖仏であります。

仏教以外の宗教で亡くなった先祖は、悟りと安心を得ておりません。仏教では、必ず教えに基づき葬儀をし、仏名をいただき、完全な仏さまとなり、先祖仏となるのです。   



(駒澤大学名誉教授)






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【11月の法話】 「仏教の教え 四諦説(したいせつ)    11月1日号
         
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


仏教の教えとして、必ず知っていただきたいお釈迦さまの教えがあります。それは、①苦②集③道④滅(一般的には苦集滅道であるが、ここでは時間経過的に並べている)の四つのキーワードで説き示された四諦説です。

苦諦(くたい)は、幸せな人でも不幸せな人でもすべての人々に必ず死の苦しみがいつかおとずれてくるから、この苦しみを乗り越えて安心を得る道をもたねばならないとの教えです。

集諦(じったい)は、その死の苦しみの原因が自分の生物としての真実を知らない無知(無明(むみょう))と、それがつくり出す自分中心の欲望(煩悩)であると教えています。

道諦(どうたい)は、死の苦しみの原因である無明を滅して安心を得るため、智慧(菩提(ぼだい))行を実践しなさいという教えです。

滅諦(めったい)は、同じ苦しみの原因である煩悩を滅して安心を得るため、煩悩を滅する(涅槃(ねはん))行を実践しなさいという教えです。

つまり、お釈迦さまは苦諦ですべての人々に死の一大事があることを知らせ、集諦でその苦しみの原因を無明と煩悩であると示しています。そして、道諦で死苦の原因である無明を滅して安心を得るために菩提行の実践をし、滅諦で死苦の原因である煩悩を滅するための実践をしなければならないと、教えているのです。

四諦における道諦と滅諦の具体的な実践として、悟りと安心を得る六つの行を六波羅蜜(六度)として詳細に説き示されています。六度は、悟りを得る(菩提)行としての①持戒(じかい)、②精進(しょうじん)、③禅定(ぜんじょう)、④智慧(ちえ)の四行と、安心を得る(涅槃)行としての⑤忍辱(にんにく)、⑥布施(ふせ)の二行よりなっています。

①持戒は、菩提行の実践のはじめの行で、規律ある生活をすることです。②精進は、一生懸命にお釈迦さまの教えを聞くこと(聞法精進(もんぽうしょうじん)すること)です。③禅定は、聞法して学んだことを静坐して心の中にきちんと記憶することです。④智慧は、静坐してきちんと記憶できた智を同じ道を求める人々のグループ(僧伽(さんが))で、皆さんに話します。そして、皆さんにも理解された普遍的な智(智慧・菩提・般若(はんにゃ))により、迷いを滅して安心を得ることです。この四行を繰り返し実践することで、私たち凡夫でも仏さまの智慧・菩提が得られ、迷いを滅して悟りが生まれて安心の道が得られるのです。⑤忍辱は、涅槃行として死苦の原因である煩悩を滅するため、煩悩が嫌いな苦しみの行を実践して煩悩を退け、安心を得る行です。これは、一人でいつでもどこでも実践できる行です。⑥布施は、同じ涅槃行で死苦の原因である煩悩を滅するため、自分の大切なものを他者にもらってもらい、大切なものについている煩悩を捨てて自分の安心を得る行です。

仏教の布施は、自分の安心を得るためにする行であり、自利行であります。ただ、その布施を受けた人にとっては、ありがたい利他行となるのです。布施は一人では実践できず、人々の存在が必要になります。布施の自利・利他の働きが、仏教の僧伽における相互扶助のシステムをつくり出し、仏教者の安らかな老病死が生まれるのです。         



(駒澤大学名誉教授)






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【12月の法話】 「仏教の教え 三帰依説(さんきえせつ)    12月1日号
         
常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


仏教の根本教理は、四諦説と三帰依説です。これはすべての仏教者が学び、理解し、実践せねばならない教えです。先月は四諦説の話をしたので、今月は三帰依の話をいたします。

三帰依説とは、①仏と②その教え((ほう))と③仏教者の修行グループ(僧伽(そうぎゃ)(サンガ))の三つを学び、帰依し、信仰することにより人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して安心と生きがいをつくり出す教えです。この仏と法と僧伽は、仏教では大切なもので三つの宝(三宝)と呼んでいます。三帰依を三宝帰依ともいいます。

①仏帰依は、仏教を開かれたお釈迦さまと、祖師仏と、先祖仏の三つの仏さまの生涯や教えを学び、信仰することです。

②法帰依は、仏さまの教え(法)を学び、信仰することです。

③僧伽帰依は、仏さまを学び、信仰する人達のグループ(寺サンガと家サンガ)に入って生涯この僧伽を信じ生きることです。

この仏と法と僧伽を学び、信じ、教え(菩提行と涅槃行)を実践することにより、仏教の課題である人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して安心と生きがいをつくり出すことができるのです。

この三帰依には、外なる三宝帰依と内なる三宝帰依があります。

外なる三宝帰依とは、自分の外にある仏と法と僧伽の三宝を帰依することです。具体的には①仏は、本堂や仏壇にまつられている仏さまを帰依することです。つまり、まつられた仏像、仏画、位牌が外なる仏となります。②法は、仏さまの教えを記したもので、経典などのことです。③僧伽は、自分が入っている仏教者の修行グループのことで、寺サンガや家サンガのことです。まず始めに、この外なる三宝帰依を学び、信仰し、教えの菩提行と涅槃行の実践をして悟りと安心を目指します。

内なる三宝帰依とは、外なる三宝帰依をすることにより自分の信心の中に三宝を内在化し、この内在化した三宝を帰依することです。内なる三宝とは、外なる三宝を学び、供養し、礼拝することにより自分の信心の中にそれが内在化されて生まれたものです。外なる三宝への信仰を自覚的に続けることにより、信心の中に内なる三宝が内在化して生き続けることになります。内なる三宝への信仰は、次に外なる三宝への信仰を篤くします。

この外なる三宝と内なる三宝への信仰の円環的相依相関の営みが、信仰を深化させて信心の中に自分と仏さまが共に生きる世界をつくり出します。さらに、この仏共生の信心の中に仏の功徳を自分に共有させていただく不思議が生まれます。そして、私たちの中に仏さまの悟りと安心がさずかることになるのです。

現代の私たちは、外なる世界だけに心をうばわれて内なる世界を忘れています。外なる三宝は多くの仏教者に知られています。しかし、それが内なる三宝帰依に発展して信心の中に仏共生をつくり出し、仏功徳共有をつくり出すということができずにいるため、悟りと安心を喪失してしまっているように思います。



(駒澤大学名誉教授)






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