平成19年 【1月の法話】 教 主 釈 尊 の 生 涯  1月2日

常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


1 誕  生

お釈迦さまは、約2500年前、インド釈迦国王スッドダーナーと、その后マーヤの長子として4月8日ルンビニーで生まれました。母マーヤは、釈尊誕生七日後、亡くなり、生母の妹パジャパティーに育てられました。

2 成  長

お釈迦さまは、平和な時代・物心両面に恵まれた環境の中で成長し強健な身体と深い智慧、温かな心をもった成人となられました。そして、母の国からヤショダラーを妻と迎え、長男ラーフラが誕生し、幸せな生活をしていました。

3 出家求道〈悲〉

お釈迦さまは、20代後半になり、隣人の老・病・死の苦悩から、自分もいつかは老い、病いにたおれ、死して土くれとなることを悟り、深い苦悩にうちのめされました。そして、苦悩の中から死にたくないと願う自分自身が、一方で死をつくっているという人生の矛盾を自覚しました。人はなぜ、願わない死を自らつくるのか、人生の目的は何なのか、そして生死の苦悩からの解脱道を求め、国王への道を捨てて樹下石上に生活して求道する沙門という宗教者になりました。

はじめ、坐禅修行をし、次に、苦行を修行しましたが、解決の道は得られませんでした。しかし農夫の歌より、苦楽の中道が問題解決の道であることを悟り、ブッダガヤの菩提樹下で、中道としての坐禅を行じ、八日目の12月8日の朝に大いなる悟りを得、問題解決を得られました。

4 成  道〈智〉

お釈迦さまは、王宮での生活は、物心両面にめぐまれ幸せでありました。しかし、出家する時には、自分の未来の死を隣人の苦悩から教えられ、沙門になってからは、時間的には過去・現在・未来の自己を、空間的には十方より自己を省察し、真実の自己が三世十方の生命(仏のいのち)なることを悟りました。この三世十方の生命を坐禅瞑想の中で省察し、出家の目的であった人はなぜ死ぬのかという人生の目的を教えられ、また、生死の苦悩からの解脱道を発見されました。人生の目的には、自分の人生を生きることと、三世十方の生命を永遠に伝承することの二つがあることを悟られました。また、生死の苦悩からの解脱は、三帰依・四諦・六度の実践によって得られると悟られました。

5 45年の伝道〈慈〉

お釈迦さまは、29歳のとき、人は、死にたくないのに、自ら死をつくる矛盾があり、生死の苦悩があることを知ってマガダ国のラージャガハで出家し求道を始められました。そして35歳のときブッダガヤの菩提樹下で成道し問題を解決されました。それより、80歳でクシナガラにおいて亡くなるまで45年間、沙門として樹下石上の生活をしながら、多くの人びとに悟られた人生の目的と生死の苦悩からの解脱道を、大いなる慈悲をもって説示されました。

6 入  滅

お釈迦さまは、成道後、沙門として樹下石上に生活し伝道をつづけられ、最後はクシナガラのサーラの林の中で2月15日、安らかに完全な涅槃(安心)に入られ、仏(悟りと安心を得た人)となられました。
(駒澤大学名誉教授)




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【2月の法話】 お釈迦さまの涅槃会(ねはんえ)  2月11日

常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


お釈迦さまは、2月15日にクシナガラのサーラの林で亡くなり完全なる安心(大般涅槃)を得られました。仏教徒は、この日を涅槃会と呼んで、讃仏と報恩の法要や行事を行ってきました。

寺では、本堂に、お釈迦さまがクシナガラのサーラの林で亡くなられたとき、多くの仏弟子や信者、動物が集まって、その死を悲しんでいる絵(涅槃図)を、かかげます。

また、当日の朝のおつとめで、讃仏報恩の法要を行います。

お釈迦さまは、菩提樹下の悟りにより、私たちは、生物で、生命によってあると自覚されました。その生命は、時間的にこの地球上に30数億年前に生まれてより、自分まで生物を乗りかえながら生きつづけ、さらに子孫へと生きんとしている三世の生命であります。また、空間的には、この地球上に生存したすべての生物をつくりだしている十方の生命であります。

お釈迦さまは、この三世十方の生命の実相のなかに、出家求道して明らかにしたかった人生の目的と、生死の苦悩から解脱して安心を得る道を発見されたのです。

私たちは生命なるもので、個の生物を乗物として非連続しながら、親より子へと連続して、永遠を求めて生きているものであります。生命は、生物を乗物とし、生物の物質的なもののなかに存在しています。

物質的なものは、常恒ではありえず変化し、死にゆく非連続なるものです。そのため、生命は生物を乗りかえて連続し生きているのです。

お釈迦さまも、生物として2500年前、クシナガラで亡くなられましたが、その生命は私たちに伝承され、私たちの心身に新帰元して生きているのです。お釈迦さまは亡くなられましたが、私たちの心身にお釈迦さまの生命が生きていることをはっきりと自覚して下さい。

それに仏教徒は、お釈迦さまに、ほとけさまとして心のなかに誕生していただき、生涯供養をつづけることによって、等身大のお釈迦さまに心のなかに生きていただいているのです。この生きているお釈迦さまより、祈りを通して教えを聞かせていただくのです。

このように、お釈迦さまは2500年前になくなられましたが、それ以来仏教徒の心に、再生して私たちの心に生きつづけて生きているのです。今後も仏教徒のいるかぎり、お釈迦さまは、その心身に生きつづけてゆくものです。

お釈迦さまは、私たち仏教徒の生命と心のなかに、永遠を求めて仏さまとして生きつづけてゆこうとされているのです。

お釈迦さまの涅槃会は、2500年前の仏弟子、信者の悲しみをしのび、その悲しみをふまえて、仏教を学び、信仰することによって、お釈迦さまを私たちの心身に再生していただく行事であるのです。

そして、私たちは寺サンガや家サンガのなかで聞法し、菩提行や涅槃行の実践を通して、人生の目的を悟り、生死の苦悩から解脱して、安心と生きがいのある人生をつくりださねばならないのです。
(駒澤大学名誉教授)




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【3月の法話】 彼 岸 の 意 味  3月12日

常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


仏教の彼岸という言葉は、苦しみの世界「此岸」より、安らかな世界「彼岸」に行くという意味です。つまり、仏教では悟りと安心を得た世界を彼岸と呼ぶのです。

お釈迦さまは、20代の後半になって、すべての人々に、死にたくないのに死をつくる矛盾があり、生死の苦悩があることを自覚されました。

そして、死の矛盾を明らめて人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して安心や生きがいをもちたいと考えて、宗教者となり、求道されることになります。

幸いにもお釈迦さまは、6年の求道の後に、ブッダガヤの菩提樹下の成道で、人生の目的を悟り、生死の苦悩より解脱して安心を得る道を発見されました。

お釈迦さまにとって、この菩提樹下の悟りを得るまでが、「此岸」であり、成道後45年の伝道活動の後クシナガラのサーラの林で亡くなられるまでが、「彼岸」となります。

このような彼岸の意味をふまえて、日本の仏教は、四季のなかで春と秋の好時節に、苦しみの世界より、安らかな世界に行くための、仏教を学ぶ行事を『彼岸会』としてもっているのです。

草木が芽吹き、花が咲きにほう春彼岸に、菩提寺・お仏壇・墓の仏さまにおまいりし、仏の教えを学んでいただきたいと思います。

菩提寺には、仏教を開かれたお釈迦さまを本尊とし、沢山の祖師仏・先祖仏がまつられています。それらの仏さまたちの御生涯や教えを学び、信仰し、教えを行じて人生の目的を悟り、安心や生きがいをつくりだしていただきたいと思います。

特に、お釈迦さまの御生涯と教えは、全檀家の人々に学んでいただきたいと思っています。寺では、お釈迦さまの生涯や教えを学ぶためのテキストを、書庫に沢山用意しています。テキストは子ども用のマンガより、老人のためのビデオまで沢山あります。

寺でも、学びの場を、一泊参禅会や日曜礼拝などだけでなく、今後多くしてゆきたいと思っています。ビデオをみながら、インドや中国の仏蹟巡礼をする会なども開きたいと考えています。

住職の指導で一日とか一週間のスケジュールで、お釈迦さまの生涯と教えを学ぶ場も設けて行きたいと思います。

お釈迦さまは、私たちの人生の目的は、先祖よりいただいた生命を大切にし、次の世代に伝承してゆくこと、それに自分の幸せな生活をつくる二つの目的があると教えています。

また、生死の苦悩を解脱して安心を得るために、修行の場である寺の信仰者の集り僧伽(さんが)に参加し、仏教を学び仏さまを信仰しなさいと教えています。次に、寺の僧伽の活動から、各自の家の僧伽をつくり、この寺僧伽と家僧伽が相互に関係して、学びと信仰が深まり、人生の目的を悟り、生死の苦悩より解脱して安心が得られ、家門興隆し、子孫繁栄すると教えています。
(駒澤大学名誉教授)




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【4月の法話】 お釈迦さまの誕生日  4月1日

常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


4月8日は、仏教を開かれたお釈迦さまの誕生日です。お釈迦さまは、今から約2500年前、インドのルンビニーの花園で父釈迦国王スッドーダナと母マーヤのもとに生まれました。

私は今年も2月27日に17回目のインド仏蹟巡礼で、お釈迦さまの生まれたルンビニーを訪ねました。

現在の聖地ルンビニーは、お釈迦さまの母マーヤをおまつりしたマヤ堂と博物館、それにアショカ王のたてた円柱(ピラー)ネパールの寺とチベットの寺が中心にあり、そのまわりに、世界各国の仏教寺院(本堂と宿坊)が、建設中です。わが国の日本山妙法寺の大ストゥーパー、霊友会の国際仏教研究センター、韓国の寺、ミャンマーの寺、タイの寺、フランスの寺などは完成しており、そこに修行中のお坊さん達が朝夕マヤ堂に集って、おごそかな祈りをしています。そのなかに小学生のかわいいお坊さんたちもおりました。

お釈迦さまは、母マーヤが釈迦国の東となりにあった母のコーリヤ国に出産のため里がえり中に離宮であったルンビニーの花園でうまれました。

悲しいことに母は、お釈迦さまが生まれて7日目に亡くなられました。お釈迦さまは、母の妹パジャパティーに母親のような愛情で育てられました。

そして、お釈迦さまは、強健な身体、立派な人格と智慧をもった青年に成長され、後に、仏教という人類にとってかけがえのない宗教をつくりだされたのです。

私は、このお釈迦さまの生まれた聖地ルンビニーを、今から40年ほど前に最初におまいりしました。当時のインド仏蹟巡礼は、大変苦しい旅でした。乗り物のバスは、床に穴があいていてそこより土ぼこりが入ってくるようなオンボロ車でした。宿は、インド人の旅館で、ノミやシラミがいてなかなか眠れませんでした。食べものは、日本人からすると不衛生なもので、全員が下痢をして苦しみました。何度もバスが故障して、スケジュール通りに巡礼ができませんでした。真夜中の12時頃に旅館につくようなことがたびたびありました。そのようなときは、夜盗賊におそわれる危険があるので銃をもった二人の警察官にバスに乗ってもらいました。

生命の危機を感じるような旅をしてやっと夕方に、この聖地ルンビニーに着いたのでした。

ルンビニーには、当時旅館はなく、私たちはネパールの寺に野宿するようにしてとめていただきました。

その夜、私はなかなか眠ることができなかったので、色々なことを考えさせられました。

その一つは、お釈迦さまがここに生まれたから、私も生まれてきたのであるということでした。私は曹洞宗の寺の子として生まれました。曹洞宗の寺は開祖道元禅師がいないと生まれませんし、道元禅師は、お釈迦さまが生まれないと道元禅師になれなかったのです。

そして、私たち仏教徒にとって、2500年前、ルンビニーにお釈迦さまが生まれなかったら、今がないということです。

そのように私たちにとっても大切なことが、お釈迦さまの誕生日なのです。
(駒澤大学名誉教授)




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【5月の法話】 常真寺開山会  開山四百三十五年  5月1日

常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


常真寺は、元亀3年5月16日、今から435年前に建立されました。

久我城j主藤原光綱(久我常真)は、小田原の北条氏が、唐沢城の佐野氏を攻撃した折、佐野氏を助けるため参戦し、佐野市の唐沢山麓で5月16日に戦死し、その菩提涅槃をとむらうため、家臣たちが常真寺を建立しました。

曹洞宗では、寺を建立することになった信者を『開基』と呼び、この城主久我常真が寺の開基となっています。

また、寺を開いた僧のことを『開山』と呼び、祥山永吉大和尚が開山されました。城主久我常真は、祥山永吉大和尚より『光徳院殿實山常真大居士』という法名(仏さまの名前)をいただいております。

常真寺では、開山以来城主久我常真の亡くなった5月16日を『開山会』とし、菩提涅槃をとむらい、寺の興隆と、檀信徒の繁栄を祈願する法要を厳修してきました。

今年は、常真寺が建立されてから435年になります。

開山以来の住職は、次の通りです。第1代祥山永吉、第2代吉松源猟、第3代風岩寿朔、第4代久薫潢良、第5代寶林間宅、第6代幽峯漂玄、第7代芳国祖春、第8代泰運珉堂、第9代海隣徳洲、第10代仏嚴卓洲、第11代祖山黙宗、第12代物外畫泉、第13代活山顕宗、第14代鉄叟良嚴、第15代天山魯龍、第16代靈洲寛山、第17代一山祖宗、第18代靈山梅室、第19代久山文雄、第20代佛心悟宗、第21代泰山道立、第22代俊良察道、第23代六角俊芳、第24代龍海光隣、第25代大圓義秋、第26代無鑑廣義各々大和尚となっている。

平成17年5月16日の開山会の折り、常真寺の歴住の法名を記した、石塔を寺裏の墓地に建立しました。

城主の子孫は、栃木県岩舟町に佐山家として住しています。

常真寺が建立されるには、城主の家臣団の荒井、湯澤、大橋、大貫、小林、吉村、橿渕、青柳、荻原家などの人々の努力、それに開山祥山永吉大和尚の指導がありました。また、寺が435年後の今日まで維持され、活動してこれたのは、多くの住職と檀信徒の人々の信心によるものであります。

寺に、現存する『大般若経六百巻』に記されている数百の寄進者名をみると、常真寺をささえてきてくれた人々の信心をしみじみと感じさせられます。

曹洞宗の寺は、教主釈尊仏、代々教えを伝えてくれた僧の祖師仏、私たちの先祖仏の3つの仏をまつり、信仰することにより、仏の教えにより、人生の目的を悟り、生死の苦悩を解脱して安心と生きがいを得る道場であります。

常真寺を435年ささえてきてくれた人々の努力を思い、その御恩にむくゆるためにも、寺の本来の
目的を達成するための伝道活動を展開し、1人でも多く人々に悟りと安心を得られるようにしてゆきたいと念じています。これからも寺の活動の一層の充実をはかってゆきます。
(駒澤大学名誉教授)




常真寺 平成19年5月の

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【6月の法話】 雨安居について  6月1日

常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


お釈迦さまの国のインドでは、6月は雨期で、日本と同じように雨が降りつづきます。

雨が降ると、樹下石上に生活するお坊さまたちは修行の旅ができなくなりますので、信者の家の軒下をかりて雨をしのぎました。

そして、町の公会堂などをかりて、お釈迦さまの説法を聞く会を、雨期のあいだつづけられました。この雨期のあいだ一ヵ所に定住して、仏教を学ぶことを「雨安居」と呼んでいます。雨安居では、仏教徒はお釈迦さまの教えを聞き、わからないところはお釈迦さまに質問し、また皆で話しあって理解を深めあいました。

雨期が終わりますと、お坊さまたちは次の雨期まで1人でも多くの人々にお釈迦さまの教えを知らせるために伝道の旅をつづけました。お坊さまたちは、毎年雨期の聞法修行と乾期の伝道をくりかえして行っていました。

「晴耕雨読」晴れの日は畑で働き、雨の日は家で本を読むとうい言葉がありますがお釈迦さまの時代のお坊さまたちは、雨の日に学び、晴れの日には人々にその学んだ仏法を伝道する生活をされていたのです。

私たちも、6月の雨の季節を、仏法を学ぶ修行の時期と考えて、修行していきたいrと思います。毎年、6月の寺の行事には参加者が雨のため足もとが悪くなるためか少なくなりますが、お釈迦さまたちの当時をしのんで雨安居の修行をしていただきたいと思います。

最近、新聞やテレビで突然理由もなく殺される事件が報道されています。事件にあった御家族の人々の悲しみは深く、その不条理は堪えかねないものであると思います。

残された御家族の方がもとのような生活にたちもどるには、大変な努力と時間がかかります。なかには、再起できず深い苦境に落とされてしまう人々もあります。

このような不幸に直面しない幸せな人々もいつかは、身近な家族の老い・病い・死に直面して、同じような悲しみと堪えられない不条理に直面するのです。

新聞やテレビで報道される悲しい事件は、彼岸のことではなく、此岸のことです。けっして、ほかの人の問題だけではなく、自分の問題でもあるのです。

お釈迦さまは、常に老病死苦の一大事がすべての人々にあると説示されていました。そして、それに直面したときにその危機を乗り越える道である仏法を説示されているのです。

老病死の一大事に直面してからではおそいのです。平和で、健康で、幸せなときに、お釈迦さまの教えを学び、修行することによって、人生の目的を悟り、老病死苦からの解脱道を得ていかねばなりません。

寺とその活動が、人生の目的を悟り、老病死苦を解脱して、安心と生きがいをつくる場となりたいと祈念しています。
(駒澤大学名誉教授)




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【7月の法話】 千の風になって  7月1日

常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


新井満さん訳の「千の風になって」が、多くの歌手に歌われて人気をはくしています。訳詩の一部は、次のようなものです。
  

私のお墓の前で泣かないでください   そこに私はいません
眠ってなんかいません          千の風に
千の風になって             あの大きな空を
吹きわたっています          
秋には光になって畑にふりそそぎ
冬はダイヤのようにきらめく雪になる 
朝は鳥になってあなたを目覚めさせる
夜は星になってあなたを見守る
             
 
訳者の新井満さんは、「般若心経」の現代語訳を出版している人で、仏教を正しく学び、理解している方です。

この詩は、亡くなった方より、生き残っている私たちに語る形式になっています。
 
亡くなった方は、火葬にされて骨だけしか残っていません。骨も、亡くなった方が生きているときに食物を通していただいたカルシウムなどでできており、死によって完全に無くなってしまったのです。私はお墓にいませんというのは、このことを意味しています。
 
私たち仏教者は、身近な人が死によって完全になくなってしまった深い悲しみをのり越えるため、亡き人がただ一つ残してくれたお骨をこの人の象徴として、お墓に塔を建ててまつります。また、お葬式を通して仏さまの名をつけていただき、心の中に仏として再生し、祈りを通しての対話のなかに、悲しみをのり越える道をもっているのです。
 
私たちは亡き人を、仏さまとして、外にお墓にまつり、内に心におまつりしているのです。この外なる仏と内なる仏を信仰することによって、生前と同じように亡き人と共に生き、亡き人のものを共有させていただき、生きる智慧や勇気をいただくことができるのです。
 
亡き人が千の風になって、私たちと共に吹きわたることのできるのは、このような外なる仏と内なる仏の信仰により、仏さまを内在化することによって生まれるのです。
 
お釈迦さまは、死によって完全に無くなった人を、自分の生命と心のなかに仏さまとして再生し、生涯にわたってこの仏さまを共生させることにより悲しみをのり越え、仏さまの智慧や生きる力を共有させていただき、強く生きなさいと説き示されています。
 
私たちも亡き人を、仏さまとして内在化して再生させ、仏さまと共生することにより悲しみをのり越え、安心や生きがいをつくりだしましょう。

(駒澤大学名誉教授)




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【8月の法話】 先祖仏について  8月1日

常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


仏教では、亡くなった人を教えにもとづいて葬儀をし、法名(ほとけとしての名前)をつけて、仏とします。  
  
仏には、仏教を開かれた本尊仏であるお釈迦さまと、代々仏教を伝えてきた祖師仏と、仏教の葬儀により法名をいただいた先祖仏の三種の仏がいます。
 
人は亡くなると仏となるのではなく、仏教の教えにもとづいて葬儀をして法名をつけていただき、初めて仏となるのです。
 
葬儀は、本尊のお釈迦さまより、教えを代々伝承してきた祖師仏(菩提寺の住職)が司祭し、法名をつけて亡き人を仏とする儀式であります。常真寺住職である私は、お釈迦さまより、九十三代の祖師仏です。私を導師として葬儀をされた人は、お釈迦さまより、九十四代目の先祖仏となります。
 
このことを図で示したものが『お血脈』で葬儀の折、亡くなった人に授与されます。お血脈は、骨壺に入れられ、先祖仏になったことが永遠に証明されるのです。お血脈は、第一代のお釈迦さまより住職までの祖師仏の名が記され、次に住職より仏となった人の法名が記されています。これらが赤い一本の線(血脈)で結ばれて一体の図となっているのです。
 
つまり、亡き人は、仏教の葬儀をし、住職より法名とお血脈をいただかないと仏となり、先祖仏になれないのです。最近、僧侶なしの葬儀がおこなわれているとのことですが、これでは、仏にはなれません。単に亡くなった人で、まもなく残された人々より忘れられて無化されることになるだけです。
 
仏教では、仏となった亡き人を、菩提寺と仏壇と墓の三カ所におまつりし、家のつづくかぎり、子孫は先祖仏として供養しつづけるのです。
 
この子孫の先祖仏供養により、私たちは、子孫の生命と信心のなかに、永遠に仏として生きつづけることができるのです。
 
人は、亡くなることにより、身心を無化し、外なる存在は無くなってしまいます。亡くなった人のあの世などないのです。
 
この亡き人との断続の悲しみのなかから、残された人々は、お釈迦さまの教えにもとづき、自分の生命のなかに亡き人と同じ生命が生きていると悟り、心の中に亡き人の全生涯を記憶し、これにもとづいて、葬儀を通して心のなかに新帰元し、仏(法名)として誕生させるのです。葬儀は、亡き人の仏としての誕生日となるのです。そして、四十九日までに供養をつづけ、生きていたときと同じ等身大の仏に育てあげ、生涯この等身大の先祖仏と祈りを通しての対話をし、その対話のなかに悟りと安心をさずかって行くのであります。

(駒澤大学名誉教授)




常真寺 平成19年8月の

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【9月の法話】 お彼岸会(ひがんえ)  9月1日

常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


お彼岸会は、春秋の好時節に私たち仏教徒が仏(ほとけ)さまの教えを学び、信仰することにより悟りと安心を得る修行期間です。
 
苦しみの世界(此岸(しがん))より、安らかな世界(彼岸(ひがん))に行くというの「彼岸」という言葉の意味です。
 
仏教をひらかれましたお釈迦さまは、二十代の後半になって自分は死にたくないのに死をつくる矛盾をもっており、生死の苦悩があると苦しみの世界を自覚されました。

そして、この苦しみの「此岸」より、死の矛盾を明らめて人生の目的を悟り、安心や生きがいのある「彼岸」に行きたいと考え沙門という宗教者となり、求道されたのです。

私たちにも、お釈迦さまと同じ死の矛盾と生死の苦悩があるわけですからお釈迦さまの教えにより、苦しみの「此岸」より安らぎの「彼岸」へわたらねばなりません。そのため彼岸会があるのです。
 
幸いにもお釈迦さまは、六年の沙門としての修行の後に、ブッダガヤの菩提樹下の坐禅中に成道し、人生の目的を悟り、生死の苦悩からの解脱道を発見され、安心を得られました。
 
お釈迦さまにとっては、この菩提樹下での成道にいたるまでが「此岸」であり、成道後よりクシナガラで亡くなられるまでが「彼岸」でありました。
 
このような「彼岸」の意味より、日本の仏教は、四季のなかで春と秋のよい時節に苦しみより安らかな世界に行く「お()(がん)()」という行事をもっているのです。

お釈迦さまは、この苦しみの「此岸」より安らかな「彼岸」にゆく道として三帰依と六度の教えを示しています。

三帰依は、(ほとけ)さまと、その教えと、仏さまと教えを信じるグループ(サンガ)をよりどころとし、信仰し生きることです。

(ほとけ)さまは、仏教をひらかれたお釈迦さまと、そのお釈迦さまの教えを私たちへ伝承してきてくれた()()(ぶつ)と、その祖師仏である菩提寺の住職による葬儀により仏となった(せん)()(ぶつ)の三つに分けられます。このお釈迦さまと祖師仏と先祖仏の生涯と教えを学び、悟りと安心を得るよりどころとし、信仰していきましょう。

また、この三つの(ほとけ)さまを信仰する寺サンガのメンバーとして活動に参加し、それにより家サンガの活動を充実させましょう。そして、寺サンガと家サンガのメンバーを信じ、たよりとして、自分の悟りと安心をつくってゆきましょう。

六度とは、苦しみの「此岸」より安心の「彼岸」にわたる六つの道という意味で、悟り(菩提)を得る①正しい生活をする持戒 ②教えを聞法精進する ③聞法したものを坐禅し、自分の智慧にする禅定 ④坐禅瞑想によって生まれた自分の智慧を、サンガのメンバーに語り、メンバーの普遍智とすることと、安心を得る⑤我執をすてる忍辱 ⑥煩悩をすてる布施の六道になります。

お寺の活動を通して、このお釈迦さまの三帰依、六度の教えを学び、実践して苦しみの「此岸」より、安らかな「彼岸」にわたりましょう。

(駒澤大学名誉教授)






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【9月(秋彼岸)の法話】 苦しみより安らぎへ  9月23日(秋彼岸)

常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


私たちは、苦しくなるとなんとか苦しみをのり越えて、安らぎを得たいと思います。
 
お釈迦さまは、この私たちの苦しみより安らぎへの道を教えてくれている人であります。

お釈迦さまは、すべての人に深い苦悩があると悟られて、すべての人が苦しみより安らぎへいたる道を説示されました。

お釈迦さまの悟られた人間の深い苦悩とは、自分の死が自分にもたらす死の苦しみであります。すべての人に死はあり、すべての人に死苦はあるのです。
 
ところが、私たちはのんきにこの一大事に気づいていないのです。お釈迦さまも、二十代の後半になるまで、気づいておりませんでした。
 
お釈迦さまは、身近な人の死の苦しみや死より、自分にもこのような一大事がいつかおとずれてくると教えられました。
 
仏教では、私たちの今ここで生きている世界を「此岸(しがん))」と呼び、死苦のあるところとしています。この死苦をお釈迦さまの教えを学び、信仰することにより苦しみをのり越えて安心が得られ、「彼岸(ひがん)」に生きられると説いています。「此岸」は苦しみの世界で、「彼岸」は安らぎの世界であります。

お釈迦さまは、すべての人がこの「此岸」の死の一大事を悟り、「彼岸」の安らぎの世界へわたっていただきたいと念じているのです。このお釈迦さまの願いを知って皆さんで、仏教を学んでいきましょう。お寺は、このお釈迦さまの教えを学び、実践する道場であります。

お釈迦さまは、この苦しみの「此岸」より、やすらかな「彼岸」にゆく道として、根本教理としての①三帰依と②六度の実践を示されています。まず、この二つの根本教理を正しく理解しましょう。

仏教の学びと実践は食事と同じで、絶食も食いだめできません。人間は絶食してはいきてゆけません。また、どんなに食いだめをしてもまた食べないと生きてゆけません。私たちは、朝・昼・晩に適度な食事を毎日つづけてゆかねばなりません。

これと同じように仏教の学びも、寺や家庭の宗教活動を、生涯毎日つづけてゆかねばならないのです。

常真寺の檀家の皆さんは、毎日朝夕のお仏壇へのおまいり、寺の日曜礼拝への参加、お正月、両彼岸、お盆のお墓まいりなどを生涯つづけていただきたいと思います。

仏さまへのおまいりを豊かにするため、お仏壇、菩提寺、お墓を、常に美しく荘厳しましょう。

そして、仏さまへ、おまいりをすると同時に、仏教の教えを常に学ぶことにより信仰が深め、苦しみの「此岸」より安らぎの「彼岸」にむかいましょう。

「此岸」より「彼岸」にいたると、そこは「此岸」になります。さらに、次の「彼岸」を求めて安らぎをめざしましょう。このように、「彼岸」への歩みを生涯つづけることにより、安心が不動となります。

(駒澤大学名誉教授)




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【10月の法話】 三世十方の(まなこ)  10月1日

常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


私たちは平常、時間的には現在と、空間的には自分の立場から一方的な(まなこ)で、ものごとを考えて行動しています。

しかし、身近な人が亡くなったりすると、その人の死をふまえて自分の未来の死を考えたりします。つまり、現在だけでなく未来を考え、自分の立場より一方的に考えるだけでなく亡くなった人の立場をふまえて二方より考えるようになります。つまり、私たちは平常、現在と自分から一方的に考えて行動し、非常のときに、現在と未来、自分と他者の二方より考え行動しているのです。

私たちの長い人生の大半は、この平常なときの眼と非常なときの眼で、ものごとを処理して生きてゆけます。

しかし、この二つの眼で、処理できない問題が私たち人間にはあるのです。それがお釈迦さまが国王への道を捨てお坊さんになって取り組むことになった問題であります。

お釈迦さまは、約二千五百年前のインドの王家に生まれ、平和な時代に、物心両面にめぐまれた環境のなかで、幸せに生きていました。つまり、この平常なときの眼と非常なときの眼で、そのものごとを処理し、幸せに生きていたのです。

ところが、お釈迦さまは、二十代の後半になって、身近な人々の老病死の苦しみから、自分にもあのような苦しみが未来に必ずおとずれてくることを、悟られたのです。老病死の苦しみは、他者の問題だけでなく、自分の問題でもあったと悟ったのです。また、生老病死は人間だけでなく、すべての生物にある『(どう)()』なる真実であることをさとられたのです。この同事が、お釈迦さまと仏教の原点となるのです。同時を悟ると智慧となりますが、それは深い老病死の苦しみが、求道を通してつくりだす智慧であります。つまり、苦智なのです。

全生物の同事を悟ったお釈迦さまの眼は、前にのべた平常のときの眼と非常のときの眼ではありません。ものごとを、時間的には、過去と現在と未来の三世よりみる眼であり、空間的には多くの視点よりみる十方の眼であります。つまり、お釈迦さまは、ものごとを「(さん)()(じっ)(ぽう)」の眼でみて、自分の真実を同事と悟られたのです。

お釈迦さまの悟りの眼は、三世十方よりみる眼であります。私たちは、平常の眼や非常の眼で生きていますが、これだけでは死にゆく自分の人生の目的を悟ることや、死の苦しみをのり越えて安心を得ることはできません。どうしても、お釈迦さまの眼、仏さまの眼である三世十方の眼をもたないと悟りと安心は得られません。

私たちが仏教を学び、信仰することは、平常の眼や非常の眼だけでなく、三世十方の眼を修得し、自分の人生の目的を悟り、死苦より解脱して安心と生きがいをえるためなのです。

寺での活動を通して、すべての人々にある死の矛盾を解決して、人生の目的を悟り、死苦を解脱して安心を得られるようにしましょう。

(駒澤大学名誉教授)




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【11月の法話】 中道のお話  11月1日

常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


お釈迦さまは、死の矛盾を解決して人生の目的を悟り、死の苦しみを解脱して安心を得るには、「中道」を実践せねばならないと説かれています。

中道とは、苦しみの極端をはなれ、また、楽しみの極端をはなれて、両者の真ん中の道を歩みなさいという教えです。

極端な老いや病気や死の苦しみにうちひしがれていると、どんな人でもだめになってしまいます。また、楽しみだけを求めて食べ放題に食べ、遊び放題に遊んでいると身体と心をこわしてどんな人でもだめになってしまいます。

人々の美食によって糖尿病が発生し、古代インド文明も、ローマ帝国も滅びたと歴史は物語っています。

お釈迦さまは、苦しいときには、楽しみを求め、楽しいときには苦しみを求め、中道を歩みなさいと説かれているのです。

人は、苦しいときにその苦しみをなんとか乗り越えて、楽しみを得ようとします。ただ、幸せなときには楽しみだけを求め、また、さらに楽しみを得ようと極端な楽しみを求めるようになります。そして、最後は、心身ともにだめになってしまい、苦しみに打ちのめされてしまうのです。だから、お釈迦さまは、楽しいときには苦しみを求めて極端な楽しみをさけなさいと、苦楽の中道の実践をすすめているのです。

人が一生懸命に働くのも、色々と考え悩むのも苦しみを乗り越えて、楽しみを求めるからです。人が働くのは、生きるために衣を得たり、食物を得たり、住むところを得るためなのです。このことは、なかなか思うようにかなうものではありません。そこで、人は苦しみを感じることになるのです。人が生きるということは、苦しみがともなうものなのです。

このことわりを、お釈迦さまは、「諸行無常、諸法無我、一切皆苦」と説かれているのです。

生きることは、苦しみをともなうものであるというのが、お釈迦さまの悟りであり、仏教者が常に忘れてはならないことです。だから、楽しみを求めて、一生懸命働き、よく考えて仏教を学び、信仰して、安心と生きがいを求めるのです。

ところが現代人は、生まれたときより、新築の家に生まれ、新しい衣をき、美味しいものを食べて育って、苦しみがありません。ですから、一生懸命に働くことも、学ぶことも必要ないと思っているのです。

お釈迦さまが説かれている四苦八苦を悩まないで生きられる人なのです。これは苦しみのある人々にとって、幸せなことなのですが、このような楽しみしか知らない現代人にとっては、不幸なことになります。

どんなに幸せな楽しみいっぱいの人にも、人生では必ず老いと病と死の苦悩があり、絶対さけられず、直面すると人は、パニックになって深い苦悩に打ちのめされてしまいます。

ここに現代の人々にお釈迦さまの教えが必要な理由があるのです。

そこで、私たちに、お釈迦さまの苦しいときには楽しみを求めなさい、楽しいときには苦しみを求めなさいという中道の教えが大切になってくるのです。

(駒澤大学名誉教授)




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【12月の法話】 「亡くなった人のゆくところ」  12月1日

常真寺 住職 【緑蔭禅の集い 主幹】
  皆川 廣義


よく、「亡くなった母が、天国でみてくれている。」と、いう人がいます。仏教徒でも、このように思っている人が多いように考えられます。

「亡くなった人が天国にいる。」というのは、キリスト教の教えです。キリスト教では、キリストを信仰した人だけが、死後天国に生まれ、他の人は地獄に落とされて永遠に苦しまねばならないと説いているのです。したがって、仏教徒の私たちは天国に行けないのです。仏教徒は、亡くなっても天国にはいないのです。

それでは、仏教徒は亡くなるとどこに行くのでしょうか。

そこで、教主であるお釈迦さまの教えによって、亡くなった人がどこに行くのかを、学んでいきたいと思います。

仏教徒は、亡くなりますと、お釈迦様の教えにもとづいて、葬儀を行います。

仏教の葬儀は、亡くなった仏教徒を教えにもとづいて、お釈迦さまと同じ仏さまになっていただく儀式です。

常真寺の場合ですと、私は、お釈迦さまから九十三代目の僧です。葬儀は、私を師僧として法を授け、亡くなった人を九十四代目の仏さまにします。そして仏さまの名前「法名」を授け、位(い)牌(はい)に仏さまの名前法名を記して、象徴としてまつります。

仏教では、亡くなった仏さまを、丁寧に次の三つの所にまつります。
 一、菩提寺の本堂(位牌堂) 法名を記した位牌
 二、各家の仏壇 法名を記した位牌
 三、墓地の石塔 法名を記した石塔
つまり、仏教徒は、亡くなると菩提寺と仏壇と石塔にまつられ、そこに行っているのです。そのなかでも中心は、菩提寺の本堂へまつられた仏さまで、その寺がなくなるまで永遠にまつられ、朝夕住職により供養がなされます。

また、仏教では、仏さまを、外なる仏と内なる仏としてまつり、信仰します。

外なる仏さまは、菩提寺と仏壇と石塔に外にまつられた仏さまです。

内なる仏さまは、その仏さまの生涯や教えを、菩提寺と仏壇と石塔の仏さまをおまいりすることによって学び、自分の心のなかに内なる仏さまとして誕生していただき、供養を通して生きていたときと同じ等身大の仏さまとして、生涯いだきつづけている仏さまです。

外なる仏さまに自分の心の中に共生していただき、仏さまへの祈りの対話のなかに仏さまたちの能力を共有させていただき、悟りと安心を授かるのです。

仏教では、外なる仏さまを礼拝供養することにより、内なる仏さまを豊かにし、内なる仏さまの豊かな心が、外なる仏さまを美しく荘厳し、そしてまた、それによって、内なる仏さまがより豊かになるという信仰の深まりが生まれるのです。

このような豊かな信仰のあるところを仏国土、浄土と呼んでいます。浄土は、菩提寺と仏壇と石塔と自分の心のなかにあります。けっして、私たち仏教徒は、亡くなって天国に行くのではなく、浄土に行くのです。

(駒澤大学名誉教授)




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Ryokuyin Zen Sangha

法話&Photo Gallery 【喫茶去】
喫茶去とは?

平成19年度の法話
【1月の法話】教主釈尊の生涯 【8月の法話】先祖仏について
【2月の法話】お釈迦さまの涅槃会(ねはんえ) 【9月の法話】お彼岸会(ひがんえ)
【3月の法話】彼岸の意味 【9月(秋彼岸)の法話】苦しみより安らぎへ
【4月の法話】お釈迦さまの誕生日 【10月の法話】三世十方の
【5月の法話】常真寺開山会開山四百三十五年 【11月の法話】「中道」のお話
【6月の法話】雨安居について 【12月の法話】亡くなった人のゆくところ
【7月の法話】千の風になって






































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































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